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受容と迎合

「相手の意見(あるいは存在そのもの)を受容することが大事」

とよく耳にするし、自己啓発本なんかでもよく書かれていたりする。

僕は、この受容するという感覚がピンと来ていなくて、そして腑に落ちていなかった。

だから、自分の中で葛藤があって、受容したいんだけど出来ていないという感じで。

「受容するということは、自分の意見を曲げるということ?自分を押し殺すということ?それって、逆に自分が受容されていないんじゃ……?」

という受容のパラドックスを抱えていた。

ただ、結論から言えば、受容が矛盾した概念なのではなく、僕の "受容" に対する認識が間違っていた。

間違っていたというよりも、解像度が低かったと言ったほうが正確かもしれない。

受容に対する解像度が上がってから、非常に生きやすくなったので、この気付きシェアしたい。


どんな場面で葛藤が生まれていたかというと、例えばこんな具合だ。

僕のお店では、注文に関してワンドリンク制というルールを設けている。

お店を利用するお客さんは、必ずお飲み物を注文するというルールだ。

つまり、食べ物だけでの注文はできないというわけである。

まあ、このルール自体は特段めずらしいわけではない。

都内のカフェやコーヒー屋ではよくある。

問題は「食べ物だけを注文したい(飲み物代を浮かせたい)お客さん」に対する対応だ。

「プリンをください」

「お客様、メニュー表に記載があるのですが、当店ワンドリンク制となってまして」

「え、じゃあ、プリンだけじゃ注文できないの?」

「そうですね……!皆様にワンドリンクのご注文でご理解頂いております……」

(え、食べ物だけで注文できないなんて、おかしいんじゃないの?ぶつぶつ、、、)

そんな具合である。

これは、どちらが悪いとかそういうことを言いたいのではない。

お店にはお店の都合があり、お客さんにはお客さんの都合がある。

双方が理解、納得したのであれば、売り買いすればいい。

という、それだけの話だ。


この話のどこに葛藤があるかというと、

「プリンだけで注文したい」という意見を受容しようとすると、こちらの意見(=ルール)を曲げなければいけない。

ということである。

一部のお客さんだけの意見を受け入れてルールを捻じ曲げれば、ルールが破綻する。

なので、こちらとしては「当店はワンドリンク制となってまして、、、」と反発する形になってしまう。

つまり、受容しないという選択である。

でもこれでは、お互いに受容し合うという理想の形を成すことができない。


もう一度ことわっておくが、ここではルールの是非を問うつもりはない。

あくまで、「互いの意見が真っ向から対立する場合に、お互いを受容するということが成立し得ない」ことの例として出しているだけである。


話を元に戻すが、それでもたぶん受容し合うことはできるはずなのに、という直感があった。

なのにできない。

これはおかしいぞということで、改めて言葉の意味を調べてみようという気になった。

もう一つ気になっていたのが、「迎合」という言葉。

迎合というのは、どこかネガティブな響きのする言葉じゃないだろうか。

僕の中では、相手に合わせて媚びへつらう、みたいなイメージがあった。

それで、「需要」と「迎合」の違いを調べて、吟味していく過程で、僕の中でストンと腑に落ちる理解ができた。

  • 受容……相手の意見や考えを、ある別の価値観から捉えたときに、その心の動きとして理解できるものとして捉える。ただし、そのアウトプットとしての選択を自分も取るかどうかは範疇外である。

  • 迎合……相手の意見や考えに賛同できるか、理解できるかに関わらず、相手の意見に合わせた行動を取ること。相手の都合のいいように選択を取ること。

ちょっと抽象的な意味の説明ではわかりにくいので、具体例を上げて話してみる。

さっきのワンドリンク制の話を例にとる。


お客さんが「ドリンクは要らないから、プリンだけで注文したいんだけど?」と意見する。

それに対して迎合は、「そうしましたら、お客様だけ特別にプリンだけでの注文を承ります」だ。


対して受容は、「プリンだけで召し上がりたいというお気持ちは大変理解できます。ただ、当店はワンドリンク制となっておりまして、、、」だ。


つまり、相手の意見も否定しないし、自分の意見も曲げない状態が、互いに受容するという関係である。

  • お客さん:プリンだけで注文したい

  • お店側:ワンドリンク制というルールがある

この2つの意見を互いに「そうなんですね。お気持ちはわかります」という土台に立った上で、あとはどういう行動を取るかを決める。

お客さんがそれでもどうしてもプリンだけで食べたいというのであれば、お店側は売上をあきらめて他の店を勧める。

そして、それは同時に1人のお客さんを失うというリスクも受け入れる選択である。

一方で、お客さんが折れる場合は、お客さんはドリンクを頼むというコストを諦める。

そういう具合だ。


つまり、何が言いたいかというと、「受容する」というのは心の状態であって、選択や行動には関係がないということだ。

選択や行動を相手の意見に合わせることは、「迎合」ということになる。


多くの場合、意見が真っ向から対立するケースでトラブルになるのは、この「受容」ができてないからだと思う。

「プリンだけ注文したいんだけど?」

「ワンドリンク制なんで無理です」

極端に言うと、こういう状態になっているはずだ。

意見が対立するときに腹を立てたり、拗ねたりしてしまうの原因は、意見が対立するからではなく心の問題である。

意見が理解されない。

なんで分かってくれないんだ!

という状態になると、人は怒ったり拗ねたりしてしまうのである。

そうではなくて、意見は意見として受け入れる。

「そうですよね。。。その気持ちはとてもよくわかります。ただ、うちもプリンは原価ギリギリでやっているので。。。それでワンドリンク制でやっているんです(泣)」

という感じだ(あくまで回答の一例)。

相手の意見を否定することなく、でも自分の意見もまっすぐに伝える。

それは互いに譲れない意見だとして、その上でどういう選択をするか?

人と人とのコミュニケーション、大きく言えば人生とはその連続だと思う。


相手の意見に否定から入らない。

多様な価値観があることを想起する。

そして、相手の価値観を想像する。

そうすると、相手の意見が自分と全く違う意見であっても、自ずと「そういう考え方もあるよなぁ」と受容できるはずだ。


その上で、具体的な選択・行動としては、でにるのであれば中間をとる。

中間をとることができる例としては、待ち合わせ場所をA駅にするかC駅にするか?みたいな問題だろうか。

じゃあ、間をとってB駅にすれば、お互い同じ距離くらいの移動だよね、という具合に。

そうではなく、中間をとることができない事柄なのであれば代替案を示すか、どちらかが折れるかだ。

中間をとれないものは、例えばディズニーランドに行くか、ユニバーサルスタジオジャパンに行くかみたいな選択だろうか。

「じゃあ、今回はサンリオピューロランドに行こう!」

みたいなのが代替案になる。

ただ、この代替案がどちらにとっても行きたくない場所という最悪の結果もあり得る。

その場合は、「まあ、今回はAちゃんの行きたいディズニーに行こう。今度は、ユニバね?」

と折れる選択になる。

これが、第一声「ディズニーなんて行ってもしゃあないやん。俺は楽しくないし。ユニバでしょ」と言うから喧嘩になる。

これが最悪のパターンで、拒絶だ。

逆に本当は行きたくないのに、「Aちゃんが言うならディズニー行こうか」と言うのが迎合で、自分にストレスを溜めてどこかで爆発する原因にもなる。


まず、意見が分かれたときに、それは敵同士というわけではない。

ただ、その事象において考え方が分かれたというだけである。

これは、今回、受容の解像度が上がったことで、本当に理解できた気がする。


本当に生きやすくなったので、参考にしていただけたらと思う。

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今野直倫
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