川の流れのように生きられない
特別な日だからといって、その日だけ特別な準備や、いつもと違う装いをするのが苦手だ。
何かいつもの自分と違う気がするからである。
本当の自分ではない気がするからである。
偽りの自分のような気がするからである。
僕は自分を偽りたくない。
正直でいたい。
さっき「しょうじきでいたい」と打ち込んで だら、予測変換で先頭に「正直で痛い」と出てきた。
慌ててバックスペースで消した。
でも、僕は "正直" で "痛い"のかもしれない。
痛い人間なのかもしれない。
嘘をつきたくないから、その場での断定を避ける。
「明日、何するの?」
と聞かれると、はっきりと答えられない。
なぜなら、そこで明確な回答を出して、明日それと違うことをしていたら嘘になるからだ。
「買い物に行っているかもしれない」
などと曖昧な答え方をしていれば良いほうで。
「わからない」
基本的には、このように答える。
これが一番嘘がなく、正直で、正確な答えだ。
なぜなら、明日はどうなるか誰にもわからないし、当の本人にだってわからない。
突然、店主を辞めてバックれるかもしれない。
そんなことはない、と思いたいが。
ただ、そんなあり得ないと思われることすらもやってのけてしまうのが、ときに人間だ。
だから、明日を断定することはできない。
それによって正直な自分が保たれる。
特別な日に、特別な準備や装いをするのは、偽りの自分だ。
他所行きの格好、と言ったりするが、まさにそうなのだ。
本来の自分ではない、自分。
いつもの自分ではない、自分。
そういう自分になるのが、とてつもなく嫌だ。
自分の一部が失われてしまう感じがする。
いつもの自分とは違う自分を強要される場が、苦手だ。
例えば、友人の結婚式とか。
例えば、成人式とか。
例えば、大勢の飲み会とか。
並べてみると、全部、不特定多数の人間が出入りする場面だ。
そういう場面では、自分を保つことは難しい。
ときに場の流れというものが出来上がって、その流れに従った行動や発言を求められるシーンが出てくる。
ノリ、というやつだ。
空気、というやつだ。
そういう一定のパターンの流れに従えない人を社会不適合者と言ったりするかもしれないが、そもそもその考え方自体がおかしいのではないか。
なぜ、社会が僕たち一個人に適合することを要請するのか。
僕たちは社会の一員である前に、一個体としての動物だ。
社会不適合者、という言葉には、社会>個人、という図式が透けて見える。
もちろん、人間は一人では生きていけないので、周りと協調することは時に必要だ。
時に、である。
常に適合している必要はない。
必要な時に協力し合って生きていけばそれでいい。
そして、その必要さの度合いは個人によって異なる。
常に社会と繋がっていなければダメだという人と、基本的には一人でいたいという人がいる。
それでいいと思っている。
社会は、あくまで概念だ。
どこまでいっても、一個人同士の繋がりでしかない。
だとすれば、関係する両者(あるいは複数人)が、それぞれの気持ちや考え方を了承していればそれで問題ない。
何かとてつもなく大きな "社会" というものがあるように前提し、それに従わなければ不適合というのは、順番がおかしい気がする。
むしろ、社会のほうが個々人に適合させて、可変させていくべきだ、と思わないか。
何か提言をしているような言い方になってしまったが、これは僕のごく個人的な独り言に過ぎない。
僕は自分が自分でなくなるのが怖いのだ。
社会という有りもしない幻想に合わせにいこうとして、自分を失ってしまうことがあまりにも滑稽だし、滑稽なのに強力に引っ張られてしまうからこそ怖い。
社会という大きな存在がある、と認識することに抗い難い引力が生まれてしまう。
だからこそ、社会というものは存在しない、と強く自分に言い聞かせる。
社会とは一個人同士の繋がりで、顔の見えるAさんがいて、Bさんがいる。
そういう目の前の現実を一つ一つつぶさに見つめて、世界を再認識していく。
そういう作業が必要だ。
それは、偽らないという行為だ。
目の前のものをあるがままに、自然なままで、ただそこにあると認識する行いだ。
化粧をし、着飾って、他所行きの格好をしたものを、僕たちは普通認識している。
認識してしまう。
今、頭に思い浮かんでいるあれもこれも、たぶんそのものの本当の姿ではない。
本当の姿は意識して、見に行かないと見えない。
本当のものを見る、とは能動的な営みなのだ。
だから、特別な日には特別な準備や装いをするという、放っておけばそのように流されていってしまうような常識を、意識的に能動的に止めなければいけない。
あくまで僕の場合は、という話だ。
僕は泳ぐのが苦手だ。
とくにクロールは息継ぎができなくて、25mくらいで死ぬ。
僕は世の中を泳ぐのも苦手なのだろう。
川の流れに身を任せていたら、いつの間にか息ができなくなって死んでしまうから、意識的にその辺りの岩などに必死にしがみついて逆らって、むしろ川上へ登っていくように努めなければ生きていけないのだ。
生き難さは、息のし難さだと思う。
呼吸困難にならないように、今日も僕は世間という濁流に逆らい続ける。