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言葉には責任が伴う、行動にも責任が伴う

今回の話は自戒を込めて。

今後の自分にも言い聞かせるつもりで書く。

そして、僕がこれまで強く守ろうとしてきたことでもある。

言葉には責任が伴う。

行動にも責任が伴う。

だから、生半可な気持ちで言葉を紡いではいけないし、行動を起こすならそれに伴う責任があることを忘れてはいけない。

これは、人間としての矜持に関わる重要な考えである。

そして、人は知らないうちにこの責任を放棄して、人知れず信頼を失っている。

僕もそうかもしれないので、常に気を配り、神経を張り巡らせて、責任を持ち続ける努力をしている。

「絶対に面倒見るから、猫飼わせてよ!」

と安易に子どもが言って、いざ飼い出したら何もしないということが往々にしてある。

こういったことが、大人でも大きいことから小さいことまで、よく起こっている。

小さいことでいうと、提出期限を守らないとか。

「この日までに提出します」

と言っておいて、何某かの理由を付けて提出が遅れるとか。

僕は提出が遅れることについて、何か一言言いたいわけではない。

ただ、「この日までに提出します」と言った言葉に、どれだけ責任を持てているかということである。

言葉は重い。

そう認識できているかということである。

言葉は口から出た瞬間に、自分の言葉ではなくなる。

世の中に生み出されるのである。

自分の子どもと同じだ。

自分が産んだ子どもには責任を持たねばならないし、大事にしなければならない。

例えば、自分の子どもが友達に嘘をついて喧嘩になろうものなら、親が相手の親に謝ることがあるだろう。

これが自分の生み出した言葉になったときに、同じような感覚を持てているか。

自分が吐き出した言葉に責任を持って、大事にできているか。

「絶対に面倒見るから、猫を飼わせてくれ」

これは言葉に出した瞬間に、猫を飼うという利益を享受するので、代わりに面倒を見るという代償を支払うということを言っている。

つまり、飼ったのに面倒を見なければ、これは食い逃げと一緒である。

「お金は後で払うよ」

と言ったにもかかわらず、ラーメンを美味しい美味しいと啜って、勝手に店から出て行くのと全く同じである。

お金になるとこれが理解できるが、言葉だと理解できない人は多い。

あるいは、言葉をお金ほどの重さで捉えていない人が多い。

むしろ、僕はお金よりも言葉のほうが重いと考えている。

お金は利子を付けて返せば許してもらえるが、一度、言葉を裏切ると簡単には許されない。

言葉には不可逆性がある。

だから、言葉を扱うことは、ガラスのオブジェを扱うが如く丁寧かつ繊細にしなければならない。

抽象度が若干上がるが、行動も同じである。

何か行動を起こすのであれば、その裏に伴う責任を一緒に負わなければならない。

例えば、何かモノを売るとする。

趣味ではなく商売として、お客さんからお金を頂戴して売る場合だ。

飲食店であれば、美味い不味いは個人によるので良いとしても、体調を崩すなどがあれば責任問題になる。

食べ物を売るということは、そういったことが起きた場合に、営業停止を余儀なくされるという責任を負っている。

この責任を甘んじて受け入れることが、飲食店営業を行う者にとって最低限のリスクだ。

お金を得るということは、逆にこちらは代償(リスク)を支払うということである。

人が人とやり取りをするとき、それは全て等価交換で成り立つ。

社会学の一理論に、贈与論という話がある。

・与える義務:与えるのを拒んだり、招待をしないのは、戦いを宣するに等しい。ヨーロッパの伝承にもあるように、招待を忘れると致命的な結果となる。

・受け取る義務:贈り物を受け取らなかったり、結婚によって連盟関係を取り結ばない、といったことはできない。受け取りを拒むのは、返礼を恐れているのを表明することにもつながる。

・返礼の義務:この義務を果たさないと、権威や社会的な地位を失う。権威や社会的地位が財や富に直結する社会では、返礼が激しい競争をもたらす場合がある。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%88%E4%B8%8E%E8%AB%96

つまり簡単にいうと、与えられたらちゃんと受け取り、その分を返せよ、ということである。

GIVE & TAKE である。

何か利益を受け取るということは、自分は何かを差し出さなければ均衡が保てない。

シーソーの反対側からこちら側に何かモノ(石ころでも何でもいい)を移動させたら、反対側にも同じ重さのモノを移動させなければ、シーソーは傾いてしまう。

その調和を保つことで、人間社会はうまく回っている。

言葉を発するということは、その代わりに何かを受け入れるということであり、それが責任だと思っている。

行動を起こすということは、それが自分に何かメリットをもたらすからであり、その代わりに責任を差し出すということだと思っている。

言霊。

古代から日本人が信じてきたこの文化には、こういった人間心理があるのではないだろうか。

きっと、古代に霊的だとか神だとか言われて大事にされてきた文化には、現代を生きるのに大事な教えが詰まっている。

だから、温故知新じゃないけれども、昔の考えは大事にしなきゃいけないなと思う。

そして、それを鵜呑みにするだけではなく、一回バラバラに解体して再構築する営みが重要だ。

その過程で、本当にその教えが自分のものになる。

また、その教えを常に自分に言い聞かせ続けることで、本当に自分が体得したと言えるようになる。

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