仕事と暮らし。見つめ直すときかもしれない
収入を得るため。
権力を得るため。
社会や誰かに認められるため。
そのための仕事になっていないか?
「暮らし」を蔑ろにして、そのための仕事を最優先にしていないか?
より高い収入、スキル、技術を得るための仕事選びになっていないか?
仕事とは本来、暮らしの一部だ。
"暮らし" と "仕事"。
「仕事は頑張らなきゃね、生活があるから。」
「仕事よりプライベートを大事にしよう。」
そんなふうに言われるように、僕たちは暮らしと仕事を分けて考えがちだ。
人生は、暮らしと仕事に二分されているような感覚さえある。
一日24時間。
そのうちの何時間は仕事に充てられていて、そのうちの何時間は暮らしに当てられている。
今は仕事の時間、今は暮らしの時間。
時間は区切りなく流れているはずなのに、明確に分かれているような気になっていないか。
会社勤めをしていると、よりその感覚は如実になってくると思う。
僕は会社勤めをしているわけではないが、無意識にその感覚がある。
どちらかというと、仕事と暮らしを分けていないほうの人間だとも思う。
それでも、生まれ育ってきた過程で、無意識下にその感覚は根付いている気がしている。
知識や考え方を上塗りしても、底の方にべったりとこびり付いている、という感覚が近いかもしれない。
それは、日々の選択にも表れる。
暮らしていかなきゃいけないから、売上を、利益を上げよう。
そのように意識的に動いているわけではないが、やはり心のどこかにはあると思い返す。
仕事と暮らしはシームレス。
いくら仕事の待遇が良くなろうと、収入が上がろうと、出世しようと、暮らしが良くなるとは限らない。
仕事を良くする。
そうやって暮らしと切り分けて考えていると、いつの間にか暗く深い落とし穴に落ちている。
仕事のことを考えるとき。
その延長線上に、あるいは隣に、あるいは折り合わさったものとして、暮らしを考えたい。
暮らしあっての仕事だ。
むしろ、暮らしの中に仕事が包含されていると言ってもいい。
仕事は暮らしの一部だ。
仕事を頑張り、やりがいを得て、収入を上げ、出世をした先に自分の思い描く暮らしはあるか。
やりがいを得る。
収入を上げる。
出世をする。
それだけが仕事選びの条件ではないということ。
それは、仕事の一側面でしかないということだ。
サイコロの六面あるうちの三面だけを見て、うんうんと唸り、首を捻っているようなものだ。
その裏っ側には、もっと大事なことがある。
収入のように数字にできない。
肩書のように言葉にできない。
そんな抽象的で、フィーリングや "なんとなく" とでも言えるような側面がそこにはある。
僕たちは、これを世間体や常識といった物差しで、見えないように蓋をして閉じ込めてしまう。
世間一般的には給与が、待遇が、福利厚生が、良いよね。
ということで、なぜか納得してしまう。
世間の物差しで測ってしまう。
そうではない。
僕は僕の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きている。
だから、世間の物差しなんてものは当てにならない。
なぜなら、それは世間という総体にとっての尺度であり、僕やあなたの人生とは全く関係がない。
僕にとってどうか。
あなたにとってどうか。
そのように自分の心に手を当て、耳を澄まし、それだけを拠り所とする。
周りの言葉は関係がない。
その答えは自分の中にしかない。
これは僕の人生であり、あなたの人生だから。
他の誰かが心地よいと思うことは、僕やあなたにとっての心地よいではない。
僕は教員を一年で辞め、その後マーケティング関連の仕事を四年ほどで辞め、今はカフェ店主をしている。
世間的に言えば、キャリアとしてもったいない生き方をしていると思う。
教員を続けていたら。
マーケティングの仕事を続けていたら。
今よりも収入や肩書は大きく、社会的に価値の高いものになっていたかもしれない。
でも、僕はそのような未来を良いなとは思わない。
想像すらしたことがない。
なぜなら、それは社会や一般的に見て良かったり、価値があったりということに過ぎないからだ。
僕の僕自身の暮らしを良くすることとは、一切の関係がない。
これからも、その姿勢は変わらない。
変えない。
でも、そう強く心に刻み、このように文字にお越しても、狡猾に忍び寄ってくるのが世間や一般や常識だ。
知らぬ間に、世間や社会の物差しで判断を下してしまっている。
僕は、これが恐ろしく怖い。
いつの間にか、自分の一部が自分でなくなっているような。
まるで、手や足の指が、ふと見たら他人のものに取って代わっていたような。
そんな不気味で気持ち悪い感覚だ。
だから、常に慢心せず、自分が自分であり続ける努力をしなければいけない。
ときに立ち止まり、自分の心に手を当てる。
具体的には、世間の情報から離れて、スマホも手放し、自然の中で黄昏る時間を持つことだ。
僕は今日も、日本海に沈む夕日を見に行く。
スマホを置き、自転車を漕いで、海辺に行く。
いつの間にか侵されてしまった心を清めるために、他人のものになってしまった体の一部を取り戻すために。
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