殺される豚はかわいそうなのか?
「豚を殺すなんてかわいそう。」
豚を食用で殺すことに、多くの人は少なからず思うのではないか。
僕も、御多分に洩れずそう思う。
本日、食肉センターに行かせていただいた。
豚を屠殺し、食肉として加工する施設である。
普段、口にしている豚が殺され、加工される現実を目にしておきたいと思ったからだ。
「かわいそう」
「残酷」
「そういうのは苦手」
そんな思いによって目を背けるのは、現実から逃げているだけなのではないか?
そういう思いもあった。
施設に入ると、さっそく開かれた豚が吊るされているのが目に入る。
これは、なかなかにショッキングな光景だった。
生きているときの豚の形状をほぼ保っているにも関わらず、頭と手足はもがれている。
そして、胴体は開かれ、肉と骨があらわになる。
「かわいそうだな」
「残酷だな」
そんな感情が自然と湧き上がってくる。
魚や昆虫、もっと言うと野菜や果物が同じ状態にあっても、こうは思わないのに。
今回、逆順路で施設内を見学。
なので、ここからの行程は全て、本来の順番と逆であると思って欲しい。
こちらは、豚の皮を剥いでいるところ。
こちらは、頭を切り落としす行程。
これは、覚悟していないと、かなりショッキングな描写だと思う。
ここには写っていないが、周辺には豚の頭だけが数え切れないくらい転がっていた。
その一つ前の工程では、内臓が残らずきれいに掻き出される。
取り出された内臓もきれいに洗浄される。
手際よく一頭ずつ、一定のリズムで処理される。
ここでは、手足が落とされる。
切り落とされた手足は、小気味良くぽいぽいと投げ入れられていく。
豚足である。
あまりはっきりと写っていないが、ここで豚が殺される。
電気で失神させられたあと、喉を掻き切られた豚は、痙攣したのちに絶命する。
豚の最後の瞬間。
悲鳴にも似た耳をつんざくような叫びは、たぶん一生忘れられない。
個人的には、この工程が一番きつかった。
当然、直前まで生きていた豚である。
僕たちにとって身近な犬や猫と変わらない、動物である。
そして、我々人間と同じ哺乳類である。
その豚たちが、次の瞬間には屠殺され、開かれ、手足頭を削がれて、肉塊になる。
「かわいそうだ」
と思うのは、ごくごく自然な心の動きだし、そう思わないほうが難しい。
やはり、魚や昆虫、野菜、果物を処理して食するのとはわけが違う。
あまりにも、生物種として人間と近すぎる。
ここで屠殺される豚は、およそ8ヶ月だという。
本来であれば、10才前後まで生きる命を8ヶ月で頂いているのが現実である。
これは、飼育コストと繁殖能力が関係している。
つまり、8ヶ月ほどで繁殖能力がピークを迎え、それ以降は衰えていくのみ。
それゆえに、それ以上、延命するということは飼育コストばかりが嵩んで採算が合わない。
だから、コストパフォーマンスのよい8ヶ月前後で屠殺し、肉に加工してしまうのだ。
これに、「かわいそうだから、もう少し生かしてから食べるべきだ」と言うのは簡単だ。
かわいそうだ、という気持ちは凄くわかる。
僕もそう思う。
一方で、採算が合わないから、そのタイミングで殺すのだというのもよくわかる。
そして、飼育コストが上がるということは、とりもなおさず肉の価格が上がることに繋がる。
おそらく、そうなることはほとんどの人が望んでいないことだと思う。
「かわいそうだから、豚を殺すな」
「食べないと生きられないんだから、殺すのは仕方ない」
そういう二元論的な単純な話ではないんだろうと思っている。
僕たち個人個人が、この事実を知り何を思うのか?どう考えるのか?
思考を巡らせて考えることが、大事だと思う。
そして、その上でそれぞれのスタンスが問われているのではないだろうか。
「豚を殺すのはかわいそうだから、私は動物肉を食べない」
という、ヴィーガンのような食事スタイルを貫くのも一つの選択肢だ。
ただ、ほとんどの一般の人にとって、それは習慣的な意味でも、趣向的な意味でも難しい。
それに僕が思うのは、豚や牛などの哺乳類でなくとも、魚や植物も一つの命である。
動物食を避けたからといって、生きていく以上、命を頂くということは避けられない。
だとするならば、僕はこの事実をこの目で直視したうえで、感謝して命を頂きたい。
この事実から目を背けて、
「かわいそうだ」
「いや、殺しても仕方ない」
と思って生き続けることは、したくない。
この事実を知らないことは楽だし、ほとんどの一般の人にとって都合がいい。
食肉センターで働く人のことも、
畜産業に携わっている人の生活も、
若くして殺される動物たちのことも、
すべて考えることなく、無視して肉を食べたり、意見を言ったりできるからである。
知らなければ楽なことはたくさんある。
けど、それこそが人間のエゴではないかと思う。
僕は、そういった知らなければ楽なことにも目を背けず、自分で考えることを選びたい。