見出し画像

心ゆるめて(096)

こんにちは、紺野うみです。

最近は、SNSなどを通じた「誹謗中傷」に、スポットライトが当たることが多いですね。

そんな折に、昔書いたこのツイートを見つけて思ったんです。

誰かや何かに対して「否定」という誹謗中傷をしてしまう人の心は、きっととても「固くなってしまっている」のではないか……と。

あなたがもし、「何か」や「誰か」に対して否定的な感情を抱いているとしたら、それはあなたの心をこわばらせ、頑なにしようとするものになってしまっているかもしれません。

自分の視点から見て、どうしても「違うな」「許せないな」と思うことがあったとき、人はどうしてもそれを拒絶するだけではなく、非難したくなるものかもしれません。

でも、その感情はともすると、自分自身の視野を狭めてしまったり、変化や成長を止めてしまうストッパーにもなりかねないもの。

ズバリ、「否定」は「取り扱い注意」なのです。

今日は、自分の胸に手を当てて、少しだけ考えてみませんか?

今の自分が持っている、心のやわらかさについて……。


心のシャッターを下ろす人

さまざまな人の心の想いや、意見に触れることができる場所でもある「SNS」です。

それらを「情報」のひとつとして互いが交し合いながら、ウインドウショッピング的な感覚で眺めていければ、それは「へー、こんなものもあるんだね」「最近の流行りはこんな感じなのかぁ」という買い物の時の出会いみたいに、自分の世界を広げてくれるツールになり得ます。

そして、それぞれが自分の持つもの(意見・思想・考え)を持って戦うわけでもなく、それらで傷つけ合わずに多くの意見や想いが集合する場所になれば、そこはもう宝庫。

でも、宝庫……になるはずの場所でも、度々心のシャッターを下ろす音が聞こえることがあるんですよね。

「自分の持っているもの以外は認めんぞ!」という想いに支配されてしまうと、人は簡単に自分の視界に触れた「別の世界」に対して、すぐに拒絶を始めてしまうわけです。

あなたがもし、誰かに自分の領域を侵されていたり、攻撃されているのなら、自分の世界を守るために動かなくてはならないこともあるでしょう。

でも、自分の領域ではなく、他人の領域の中で展示されているものに対して、自分が難癖をつけて否定をする必要は果たしてあるのでしょうか?


誹謗中傷をする人の心理とは

自分の心のシャッターを閉めているだけならまだよいのですが、別の人の世界を荒らしに出かけてしまう人もいるのが、なかなか困ってしまうことなんですよね……。

そういう人は得てして、相手の敷地に攻撃的な心のまま踏み込んで、土足でさんざん汚した後に、「自分は正しいことをしてるんだ」と主張をします。

「あいつの間違いを正してやっている」「あいつは責められて当然のことをした」「あいつに間違いをわからせないといけない」

大抵は、こういった「自分なりの正義」を主張しているという感覚を持っているので、彼らは心をますます頑なにしてしまい、自分のやっていることを客観的に捉えることが難しくなってしまいます。

でも、たとえ「相手に間違い」があったとしても、その人の方法で相手を善い方向へ導いたり、変化を促したりすることができるでしょうか?

むしろ、さらに心を構えさせたり、拒否反応をされるようになって、きっと対立せずにはいられなくなってしまうことでしょう。

……お互いの心がシャッターを閉じつつ、マシンガンを撃ち合うような状態です。(アメリカアクション映画風?)

もし、他人の領域まで行って説得をしたいなら、少なくとも自分の方は心を開かなくてはいけません。

相手が耳を傾けてくれるには、まず心の扉を開き合わなくては、屈折のない想いは届かないから。


自分の心でも否定を避ける

ここから先は

301字
この記事のみ ¥ 100

世の中を少しでも明るくする言葉たちを、心を込めて多くの方に届けていきたいと思います。 紺野うみの活動を応援していただけますと、大変うれしく思います!