待つことのコスパ
わたしは速読ができない。というよりも速読が嫌いです。
「本を読む」というのは、言葉に圧縮された何かを自分の中に眠る体験でゆっくり解凍していくような趣があります。小説を読んでいるときに一度も思い出すことのなかった同級生の顔が浮かんだり、エッセイの一節が旅行先で心に焼きついた風景をバレンで擦るように浮かび上がらせたり、ビジネス書を読んでいていつかの限りなくパワハラじみた役員の言動と表情がフラッシュバックしたり。
目の前の言葉と体験の記憶がゆっくり結びつくところに自分にとっての読書の楽しみがあるのですが、速読はその猶予を与えません。ただ意味をなぞり、情報を摂取する。
読書の時間を「コスト」と考えると短い時間で大量の本を読める速読は「コスパがよい」ことになるわけですが、そもそも速読ではわたしが求める「パ」が得られません。なんですかパって。パラサイトシングルですか。パンパシフィック水泳選手権ですか。
読書には、文字と文字から呼び起こされる記憶が結びつくまでの時間が不可欠です。その時を待ちながら読むから、必然的に時間がかかる。その時間はコストどころかむしろパフォーマンスです。時間は読書の愉しみそのものに含まれています。時間を忘れて没頭する恍惚が、速読にはないのです。
さて、いわゆる「編集マニュアル」のようなものには書いていないけれども、実際に編集者としての仕事の中で一番長い時間やっているのは、圧倒的に「待つこと」です。原稿を待つ。返信を待つ。期が熟すのを待つ。読者の反応を待つ。ゲシュタルト崩壊するくらい待って待って待ちまくり、大半の時間が「待つ」ことに費やされるからこそ編集者の個性は「待ち方」に出ます。
しかし、「待つ」というのは、コスパ的資本主義と非常に相性が悪いものです。ここに現代人の生きにくさがあるような気がしています。「待てなさ」の原因は何か。どう「待つ」と付き合うか。それが今回の本題です。
「逡巡する」「立ち止まる」「悩む」「迷う」「振り返る」「寄り道する」「言いよどむ」「書きあぐねる」。そういう時間のかかる「待つ」の類義語は忌避され、「非生産的だ」「無駄だ」と切り捨てられ、「効率」や「スピード」や「即断即決」への圧力がかかる世界に生きています。
効率って圧力ですよね。その圧力はどこから来ているのか。はよ結果出せ、はよ成長せえ、はよ決めえ。そう言うのは親か、会社か、社会か。少なくとも圧力の出所を辿れば自分ではないものに行き着きます。自分以外の何者かが定めた基準で効率を追い求めると、知らずうちに自分を労働機械へと向かわせ、心身を病むことにつながっていきます。
コスパは死期を早めます。究極のコスパを求めるなら今すぐ死ぬのがベストです。同じ方角を向いているのなら極論は一般論を兼ねます。すべての「結果」とは「小さな終わり」のことであり、最後の結果は等しく死ぬことです。大は小を兼ねるのです。個室に入った友達を大か小か詰問するのはクソハラです。
で、これほどまでに「待つ」が忌避されるのって、「待つ」という行為が受動的でしかないと思われているからじゃないかなと感じるんですよ。「待つ」を「待たされている」としかとらえていない。
しかしですね、待ちまくる仕事をしていると、明らかにそうではないとわかります。待つというのは「任せる」とか「託す」に近い積極的な意志を伴っていて、むしろ相手を「待たせている」状況へと追い込みます。
本作りにおいて、編集者は「それでは原稿を待っていますね」と言った瞬間から自分を「待つ者」に、著者を「待たれる者」にします。
哲学者の鷲田清一は、『「待つ」ということ』の中でこう書いています。
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