
『金閣炎上』水上勉
1950年に起こった金閣寺放火事件。犯人は寺の修行僧であった林養賢(1929-1956)で、彼は有罪判決を受けた後、医療刑務所にて結核で死去しています。
水上は、林が同郷の出であり、かつ生まれ育った境遇が自身と似ていることから、この事件に強い関心を持ちます。そして、二十余年の歳月を費やして事件を調べ上げて物した労作が本書です。
三島由紀夫の『金閣寺』と同じ事件を扱っていますが、アプローチは全く違っています。三島は、犯人である林に自身の観念を投影して、謂わば三島の分身を通じて、劇的な物語を創り上げました。三島の美学を表すために、この事件を恰好の材料としたのです。
対して水上は、あくまでも客観的な視点から、事件の実相を明らかにしようとしています。林の生きた土地を繰り返し訪ね歩き、関係者から話を聞き、資料を丹念に読み込み、その過程をドキュメンタリー風にまとめています。とりわけ、事件直後に林を捕らえた警察官、取り調べた検察官や裁判官、刑務所の看守や教誨師、更には事件直前に林と碁を打っていた僧侶から聞き取った話などは、資料的な価値も高そうです。
一方で、林の関わる会話の場面は、小説家としての想像力で作り上げています。ただ、水上と林の邂逅場面など、まるで事実のように描かれているものの、(別文献によれば)実際にはなかったとのこと。つまり、本作はあくまでも小説作品であり、すなわちフィクションであって、全てを真に受ける訳にも行かないようです。
放火の理由について水上は、究極的には分からないとしながらも、本来は禅寺でありながらその実は観光会社に成り下がっているこの寺の実状と、その齟齬に向き合わない住職に対して、林と同様に冷ややかな目を向けています。三島作品に比べて、かなり現実的な見方です。
小説の最後は、水上が執念で探り当てた、林とその母の墓地の、うら寂しい風景で幕を閉じます。これも、放火後に林が生きようと思い直す三島作品のラストシーンと、好対照をなしています。
小説としての面白さでは三島作品の方が上ですが、事実を正しく知るには本書の方が断然優れていると思います。
