エヴァQは『セカイ系』作者に対する庵野秀明の返答だ
先日、というか昨日(2021年3月7日)に「エヴァンゲリオン新劇場版:Q」をアマプラで観た。自分はTV版エヴァにリアルタイムで触れられる世代でありながら、これまで観てこなかった人間だ。ただ天邪鬼なだけであるが。だが、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が公開されるにあたって、新劇の「序・破・Q」を観ておこうと思い立った。そのため今回は「Q」の感想…というかQを観たことによって湧き上がってきた考察のようなものを書きたいと思う。
エヴァQのテーマをメタ的に解釈するなら、Qは「『セカイ系』な選択をした後の現実」を描いているのだと感じた。庵野が生んだ『セカイ系』作品でいうところのパターンB(あるいはC)「世界を選ばず、キミを救う」という選択をした結果、最悪な状況である「世界は壊れ、キミも救えなかった」に陥ってしまったのだが、それでもその選択をした主人公が生きているときの物語。それが「Q」なのではないだろうか。
このことは艦の隊員がシンジに向けた憎しみの目に描かれていると思う。ミサトもリツコも、悪感情を持っていなさそうであった鈴原サクラでさえもシンジのことは憎んでいた。まぁアスカは愛憎入り混じってて良くわからないし、マリはなんだか達観している雰囲気があるから全員が100%の憎しみを持っているとは言い切れないのではあるが。
さて、『セカイ系』作品において選択の結果が深く描かれることは少ないと思う。もちろんエピローグを描くのはどのセカイ系でもやってるだろうが、その後の世界のある一コマだけを描いていることが多いように思う。(元祖である「イリヤ」がそうだし、最新版である「天気の子」もそうだった)そんな中、「Q」は深堀りしている。それも最悪な結果に終わった選択をした主人公を取り巻くセカイを、だ。
つまり、庵野は自らの子供たちとなってしまった『セカイ系』に対する現実を突きつけたのだと思う。「あなたたちが『セカイ系』として選択させた世界が、結果的に最悪な状況を招いた場合はこうなるんですよ。というか本当はこうなる可能性の方が高いでしょ。だって『セカイ系』の主人公たちは大抵無茶な選択を行うのですから。それでも、あなたたちは『セカイ系』を描くのですか?」と。
Qが発表された2012年以降、『セカイ系』作品は減ったと思う。その要因にはもちろん、リーマンショックがあり3.11がありトランプの出現があったんだと思う。経済的にも、自然災害とそれが引き起こした放射線汚染的にも、格差社会が引き金となる分断的にも、『セカイ系』は時代に合わなくなっていった。なぜか。それは、もはや現世に希望すら抱けなくなったからではないのか。『セカイ系』は(最終的に無視するとはいえ)現代社会を土台にして描くからだ。
話が脱線したので元に戻すと、『セカイ系』の減少にはQも関係しているのではないか、ということが言いたかった。理由は既に書いたつもりであるが念のため補足すると、Qによってセカイ系作者が打ちのめされたからだ。「俺が/私が描いていた『セカイの選択』は、こんな結果をもたらすことがほとんどなのか。そんな選択を少年/少女に選ばせていたのか」と。
そうして出てきたのが『異世界転生系』だ。異世界転生で大事なことは、「主人公が最初からファンタジー世界に居るわけではない」ということだと思う。これは異世界において主人公が最強であることの根拠でもあるが、根っこには「たとえ自分に大いなる力が秘められていたとしても(=セカイ系の主人公は一見平凡だ)、現代社会がある現世にはなにも期待できない」という思いが読者にあるのだと想像する。現代に生きる人々は現世を舞台とした夢想を諦め、来世で無双することにしたのだ。もちろんそういう人々を批判しているわけではない。こんなことを書いている自分が一番好きな映画は「君の名は。」であり、それは単純にあの映画を観ると心が洗われるような気持ちがするからだ。つまりは現実逃避である。よって『異世界転生系』が好きな人にかける言葉は、「批判」ではなく「共感」となるだろう。
最後に、この文章は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」鑑賞前に書いた。予告動画すら見ない状態で鑑賞するつもりで、それは自分にとっては期待していることを意味している。上で書いたような事柄が的外れでないことを祈りつつ、「||」を鑑賞することを楽しみにしている。