往く日々と夜(13)(R18)
第十三章 筆、墨と刺青(下)
作者MiyaNaoki 翻訳sekii
「どうして?前に言っただろう?今はそんな自虐的なことははやってないから。やってみないとわからないじゃないか…それに、手で書いても結局本は印刷される。違わないよ。」
もう、説得をする方の城戸でもうんざりした。作家のペンやインクへの愛着が理解できるが、支障をきたすほどになってしまった今となって、ペンで書くことってそんなに譲れないものか。
木島は急に真剣になって、くっきりとした目を大きく見開き、城戸の顔をじっと見つめたが、しばらくすると突然閃いて、城戸の手首をいきなり掴んだ。
わけがわからないが、城戸は従順に従うだけ。木島は城戸を引っ張られて書斎に入って、机の前まできた。愛用した万年筆を取り、顎でキャップを取ってくれと合図し、手を上げろ、右手と勝手に命令した。
何をするつもりなのかさっぱりわからなかったが、城戸は思わずその言葉に従う。木島に右手で、自分の手首に一行の文字が書かかれた。その文字の先が皮膚をかすめる感じが奇妙で、慌てて期待した。端麗な字が肌に染みこみ、かすかにくずれ、刻印になる。
「Kijima?」
城戸は自分の腕を見て戸惑った。木島が作家であるわりには、あまり派手なシーンが好きではない。自分の名前を手首に書くなんて、何をするつもりか。
木島は見透かしたように口元を緩めた。
「編集者さまは手書きの魅力をよくご存知のないようなので、身をもって感じていただきたいのだ。」
「え?それって、また何かの実験?」
城戸が呆れた。
「夜は出かけるんでしょ?そのまま出かけたら」
木島はもう一度、万年筆のキャップを元に戻すように顎で合図した。
「冗談じゃねえよ」
城戸はふふっと乾いた笑いをしたが、木島の目には、からかいのようなものではなく、むしろ、その目に、かすかな、得体のしれない感情が浮かんでいることに、敏感に気づいていた。
「冗談じゃないよ」
木島は書斎を出て、まだうまく使えない左手で、タバコをつまんで火をつけた。その煙の中に薄い唇は動く。
「消しちゃだめよ。消したら、絶交だ。」
彼が本気だったと、城戸は木島の薄っぺらな横顔を門枠越しに眺めて意識した。文字が書かれた場所が、血の流れる速さまで違っていて、奇妙な動悸を覚えた。
「ここだここだ!城戸君!早くしろよ!」タクシーを降りたとたん、通りの向こうから、社長の力強い声が聞こえてきた。二丁目でその豪快な仕草は多くの人の目を引くのは当然だが、城戸は気詰まりを感じ、バッグで顔を隠していた。肩を擦り通った人の「いい体、兄さん」の呟きが聞こえた。
どういうことか!城戸はわけがわからないまま、小走りに道路を渡った。ここ数日、木島のことばかり気にしていて、仕事が心に留めていない。社長に今夜新しい作家に会いと知らせて、そこでここに来た。が、なんでここか?考えてみれば、官能小説の作家さんがここにいても全然おかしくない。
「Eros?」
紫色の羽で飾られ、カラフルな光で輝く看板を見上げて、城戸はますます眉をひそめた。
「どう?ここ。榛原先生は個性的だね。知り合いの出版社から推薦してもらった新人作家で、人気のブロガーで、もともとエッセイを書いていたが、どうしても官能小説に移すって、うちに紹介されたんだ。文章力がすごいそうだから、あとでじっくり話して…」
社長は早いスピードで、わいわい説明をしながら、足早にお店に入っていった。大胆なスタイルの内装。社長がそれを気にすることもなく真剣な顔をして歩いていくのを見て、城戸は気を取り直してついていくしかなかった。
「えっと、榛原先生でございましょうか。」
水谷社長はようやく片隅で立ち止まり、そこに飲んでいる人たちに声をかけた。あの人はミディアムの髪で少しカールしていて、顔の大部分をおおっていて、白い鼻先と顎と、赤い唇がわずかにあらわれている。女?城戸はますます驚いた。
「はい、榛原華音(はいばらかおん)です。水谷社長ですか。」
エレガントで低い声は、その場の雰囲気によく合う。ただ、城戸はキャバクラで商談する経験があまりなく、社長に肘を触られてから、ようやく名刺を差し出した。
「はい、はじめまして、桃水社の城戸士郎と申します。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。聞いております。鬼島蓮二郎の担当編集者さんでいらっしゃいますね」
名刺を受け取った手は爪の形が綺麗に整えられ、濃いワインレッドのネイルをしている。
名刺が渡された瞬間、聞き慣れた名前を聞き、自分の袖の先に黒い文字をちらりと見て、城戸はふと呼吸が止まるのを感じ、血までゆっくりと流れるようになった。
「原稿を御社に出していいですが、前に水谷社長にもお話ししましたが、条件は一つだけ、城戸さんを私の担当編集者にするとのことです」
「なぜこの僕ですか」
どこの誰だかわからない水商売の作家か。それに、頰杖をつき、タバコを挟んで、熱心に酒を勧めながら、気さくに仕事の話をしているのは、と城戸が戸惑い、さらにすこし不安になった。決められたことをきちんとこなすのが得意だが、指名されて大役を任されるのはいままで一つだけで、木島の面倒を見てくれと蒲生田先生の頼みだ。いきなりこんな個性的な作家に指名されて、城戸は思わずに緊張した。
「鬼島蓮二郎の作品を読みました。それから、お会いしたいんです、ずっと」
榛原は真っ赤な唇で同じように艶やかな酒をすぼめ、魅惑的な表情を浮かべていた。目尻には涙のような何かが光っていた。
「ああ、でもすみません、鬼島先生は別に……」
城戸がほとんど本能的に断った。木島をこんなところに連れてきて、このぴかぴかした作家さんに会わせるなんて、想像もつかない。
「わかっています。鬼島先生は会ってくれません。でも、会いたかったのは彼じゃなく、城戸さんです」
榛原はグラスを置くと、いきなりガラスのテーブル越しに城戸の前にきた。
「ああいう作家に官能小説を書かせるように説得したり、企画したり、また修正意見をくれたりする編集者さんを知りたいんです。」
「そう思わせていただけると幸いです。ただ、僕は今も何人かの作家を担当しております。主に鬼島先生を担当していて……」
城戸はなるべく穏やかな口調を保っていたが、なんとなく緊張した。手首の文字が皮膚に刺さっているようで、チクチクとしている。木島のベンにどんな魔法がかかっているのかわからない。新しい仕事内容の話をするだけでも裏切るような気がした。
「大丈夫ですよ」
城戸の話がまだ終わらないのに、そばにいた社長がすぐに話を引き継ぐ。
「榛原先生は本当に目が肥えていますね。城戸君はうちの非常に有能な編集者ですから、先生に協力して、すばらしい作品を完成しましょう」
そういいながら、社長は肘で城戸をついた。
「私もかまいませんよ。鬼島先生とともに、城戸さんを共有するなんて」
小説家というのは、わざと曖昧な言い方をする人間かもしれない。
「あああ、そうですね……そうですね……ただ、こういうジャンルの小説を書いてくれる女性作家って珍しいですね」
城戸はいつもの調子で相槌を打ちながらも、どきどきした。
榛原は何かおかしいことに気づいたように明るく笑い出し、グラスの上で軽く指を叩いた。
「私、お、と、こ、ですよ」
「へえ……すみません、失礼しました」
城戸は恐縮して頭を下げながら、余計な話をしたのを悔しんだ。
幸いに、そばに気楽な社長がいる。
「榛原先生は、男性の心理や女性の感情について、深い洞察をお持ちになっています。きっと、何か斬新で、読者を行かせるものをお書きになるでしょう。」
「そうそう …そうですね」
城戸は社長の言葉にうなずきながら、何気なくそばにあったワインを手に取り、乾いた喉を潤そうとしたが、そのカラフルなラベルのボトルに入ったワインはきつい匂いをしている。覚悟もなくむせてしまった。また人前に失礼ではないかと思って、口を押さえて咳き込み、そそくさと置いた杯が揺れて、袖や襟を濡らした。
「大丈夫ですか…」
淡い香りのするハンカチが目の前に差し出され、城戸は顔を上げると、ちょうど榛原と顔が合った。その人が派手なかっこうをしているのに、どこか見慣れた清らかな眼差しをしている。
「大丈夫です…大丈夫」
じっと人を見つめるのがあまりにも失礼だと、城戸は慌ててハンカチを受け取り、袖を拭くと、手首に描かれた文字が半分出てしまい、榛原に何とも言えない目つきで、隠された秘密を覗き込まれている。
「ごめんなさい…ちょっと…」
城戸は息が詰まるほど緊張して、急いでその場から逃げた。そそくさと去っていく彼の背中を見て、榛原は意味不明な微笑を浮かべた。
長い、ちょっと切ない映画を観たあと、木島はベランダに出てタバコを吸う。今日は一箱を吸った。城戸に禁酒の約束をし、ワイン棚にこれ以上飲むと絶交だと書かれたシールが貼られたから、飲めなくて頭が冴えていて書くことができない。本や映画に浸ろうとしたが、城戸はどこにいるのだろうか、とついに考えてしまう。彼は何をしているか。どんな人に会って、どんな話をして、どんなことを考えているか。それは嫉妬とか疑い深さによるのではなく、自然にそう思いつくだけ。
そんな時、タバコは木島を静める。特に今、木島が指差している「アメリカン・スピリット」の匂いは、彼の心の中に溢れようとする孤独を抑えている。
純文学をやめ、城戸が導いた道を歩み始めてから、木島はますます外部との接触が少なくなった。最初は、天狼賞作家が官能小説を書くなんて、マスコミや世間に話題にされたくないという自己防衛的な気持ちもあったが、のちほど、城戸がすべてをやってくれたので、木島はこのような生活に慣れ、好きになった。閉じられた空間と城戸に頼んでいる状態は、永遠に続く錯覚をもたらす。
しかし、この頼り合って生きていく幸せは、木島だけのものだ。城戸は依然として社会という巨大な机械の中で磨耗されていて、むなしく働いている。木島のために抵抗して、すべてを一人で背負うが、彼を待っている未来はまだ定められない。
二人は微妙なバランスを保つ。このような生活は遅かれ早かれ破られ、時の歯車に砕けられる。木島は、その時まで城戸がここに、自分のそばにいるかどうか、確信が持てない。そのあたりまで考えて、木島はいつも諦める。そこまで深く考えないのも自己保護だ。
タバコを吸いすぎて喉が渇いた。木島は考えごとをしながら部屋に引き返し、ふらふらと水槽の前に出ると、ついさっきコップを割ってしまったことを思い出した。彼は撫然としてコップに水を注いだが、やはり右手がうまく働かず、ぎくしゃくしている。城戸は家を出る前に、すべての破片や汚れをきれいに片付け、床にもテーブルにも、割れたコップの形跡がない。そういえば、適当な道具と時間があれば、割れ物はきれいに片付けられるだろう。さらなる悲しみがあれば時間にまかせるから、他人からは、何の遺憾も見えないし、たとえその欠片が、心に突き刺さって血と肉の間に止まっても、誰にもわからないのだ。そここそ、すべての理不尽な悲しみや苦しみの根源だ。
そのため、ベン先と紙との摩擦と染みに夢中になるのは、おそらく痕跡を残すためだけだ。その痕跡が古くなって壊れやすくても、残そうとすることは努力した。
城戸はぼんやりと鏡を見ていた。冷たい水が顔にかかって、急に目が覚める。少し気が遠くなったように袖をまくり、手首に書かれた小さな文字を見て、さっきの榛原の不思議そうな好奇の目を思い出した。ふと、木島の言っていた手書きの魔力がわかったような気がした。Kijmaという6文字に木島の指の温度や手書きのリズム、強い感受性、言えない秘密が刻まれ、つながった文字は時間のかけらをつないで、切りのない記憶と愛がそこに流れている。
城戸は木島の原稿をよく見ていたので、それを見られる人が滅多にいないことを忘れた。いつも真っ先に自分に届けた原稿は紙が薄くて、字がきれいで、結構分厚い。それは木島が朝から深夜まで一枚一枚丁寧に書いたものだ。多くの読者は画一的に印刷された文字しか読めなく、それを通して作家が描く場面を想像し、手書きの筆画に込められた思いを読み取ることができない。手書きの文字は、木島が特別扱いしてくれたものなのに、それに気づかず、「最後はどうせ印刷なんだから違いませんよ」などと言っているのは、あまりにももったいないと城戸があらためて思った。
テーブルに戻ってきたとき、社長と榛原はすでに十年先の出版計画を決めているような仲になっていた。城戸は、手首がむずむずし、心の中では思いが重なり合っていて、何度も話がうまく繋がらなかった。幸いに、社長は少しよっぱらい、だんだん無礼講になって、城戸を叱る暇もない。ただ、気がつくたびに、自分が見つめられているのをはっきりと感じていた。直感に従って向こうを見るたびに、榛原の笑いと皮肉の意味が含まれた目つきにいつも出くわす。わけがわからないような気もしたが、不安にもなった。
やっとのことで酔った社長を自宅まで送り、マンションについたのは夜11時前だった。お店を去る時、榛原は城戸の背広の胸ポケットに名刺を入れ、耳元をかすめてよろしくね、城戸さんと囁いた。一晩中、説明のつかないことばかりしていて、この大物の女装作家が何をしようとしているか、城戸にはよくわかりなかった。もちろん、城戸は何の野望もない。これ以上のトラブルを避けるために、階段を上がる前に、城戸は名刺を取り出し、手帳に無造作に挟んだ。
夜が更けて、城戸が急いで階段を上がり、そっとドアを開けてみると、木島は玄関の床にうずくまり、壁にもたれて眠っていた。右手には開いたままの本を持っていた。その体は降り注ぐ黄ばんだ光に包まれて、流れゆく光景の上に漂う儚い影のようだった。
また飲んで酔っ払ったじゃないかと、城戸の心は強く引き摺られた。木島の体は多量なアルコールにとても耐えられないから。ただ、空気にウィスキーの匂いがなく、木島は呼吸が穏やかで浅く、ただ眠っているように見えた。城戸は眠っている木島をじっと見つめて、肩を軽く揺らした。
「木島、木島、ただいま…」
木島の細かい睫毛がかすかに震えて、目が軽く瞬きをして、ゆっくりと開いた。城戸は彼の目の中にちらちらした光の影が集まり、視線がずっと一番奥まで見通したのを見た。また、自分の疲れた顔や社会に馴染む姿がはっきりとその澄んだ瞳に映ったのを見た。木島は何秒かぽかんとしていたが、口をすぼめて笑い、それから体を寄こせ、ぎゅっと抱きしめた。
男二人が玄関にいるのはあまりにも窮屈なので、城戸はバッグを放り出して木島の背中を抱き上げた。本はがらがらと音を立てて床に落とされた。木島は何も言わず、ただ城戸を抱き続け、ソファに着いても手を離そうとせず、彼の首筋に顔をうずめて息をしていた。まるでしばらくひとりぼっちの子供のようだ。このように依存心をあらわにするのがめったにない。城戸は木島の髪をいじって、手が彼の背中に滑って、手のひらではっきりした心臓の鼓動を感じる。
しばらくすると木島は元気を取り戻したように城戸の肩に顎を載せ、軽く笑った。
「すごい香水の匂いがするね……お付き合いが楽しそうだったね。」
城戸は動揺したが、表情には何の変化も見せず、木島の言葉に調子を合わせる。
「さすが木島先生、香水にも詳しいね」
「そうね。この香水は匂いからすれば、結構遊び好き……」
飄々とした木島の超能力者のような戯言に、城戸は何もしていないのに背中に冷や汗をかいていた。
木島はようやく何かを思い出したようで、その温かい抱擁を未練そうにほどき、城戸の手首を持ち上げ、左手でカフスボタンを外していた。城戸はすぐその意図がわかり、自分で袖をほどき、高く巻き上げて、検査をもらう。
たった一行の文字がきれいに残っている。書いてから数時間しか経っていないのに、まるで肌と融合してしまったかのようだった。木島は指でその文字をなぞりながら、唇をそっとなぞり、内心では自分のそんなきざな仕草を恥ずかしく思っていたが、城戸がちゃんと覚えていて、自分の退屈な遊びに付き合ってくれている様子をみたら、またうれしくてたまらない。
「それで、感じた?手書きの魔力」
木島は顔を上げ、真剣な目で城戸に向く。
城戸は一晩のことを思い出して、苦笑した。
「もちろん、怖かったよ。仕事の話が崩れそうになったよ。」
木島は満足そうにソファにもたれ、城戸に本を拾ってくるよう指示した。本と一緒に木島の手元に置かれていたのは、この間割れたものと同じ小さな津軽瑠璃のコップだ。手作りのコップは照明を受けて透き通ったように光っていた。あれらの光は紋様によって屈折して出て、点々として、寂しくて荒れ果てた木島の心に落ちる。
「行く途中に通りかかったんだ。あれが割れたと思って、もう一つ買った」
マンションから電車の駅までの間、コップを売るお店などー軒も通っていない。ただ、木島のような家にこもる人は当然知らない。このコップを買うために途中下車して、5つの交差点も走って、遅刻して社長を怒らせそうになったことも、もちろん城戸は言わない。
木島は手にあるコップを見つめて、そして隣に座っている城戸の顔を見た。ごく素朴なマグカップで水を飲んでいるこの人は腕に自分の名前の文字が書かれ、それにそれをありふれた、当たり前のことを話している。そう思うと、木島はついに二人の未来を考える衝動が出た。
「あ、そう、これからあんたの原稿は、わたしが入力するから」
城戸は木島のほうを振り向いて、真面目な顔をしている。
「うん」
木島は語尾を震わせながら頷いた。透き通ったコップは、木島の手の中で、うっとりとした暖かさを生み出している。