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行く日々と夜(2)(R18)

第二章 仲がいいということ
「ここですこし休んで、廊下で待ち合わせ」
編集会議も終盤に入り、激情に満ちた社長が木島への賞賛と尊敬を滔々と語り始めると、ギリギリ対応していた木島は、ぎこちなく微笑んでタイミングよくうなずきながら、いつ終わるのかと心の中で念じていた。そのところへ、携帯が振動して、城戸からの上の内容のメールが入った。木島は携帯を覗いてから下に向いて机に軽く置き、右側に座っていて真剣なふりをして聞いていた城戸をちらりとみて、あごに手を当てて、大切な秘密を隠しているかのように、薄く笑った。
幸いに、社長はご多忙で、熱弁がそう長く続かず、突然の電話で途切れ、会議もそのまま終わった。
編集者たちは席に戻り、新刊に伴う多くの仕事に着手した。城戸はみんなについて会議室をしばらく出たが、外でうろついていてまた戻ってきた。城戸は木島にもう一杯コーヒーを注ぎ、ちょっと待ってくださいねと頼むように彼の肩を叩いた。
木島の目つきはカップを握った城戸の指やささやく唇を掠め、それからその広い背中を追って、彼がドアの向こうに消えてから、机の上のカップのふちに戻った。コーヒーの香りが、ゆらゆらと、空気の中に漂っていた。
「城戸君、原稿の第三章には踏襲(とうしゅう)や姑息(こそく)といった言葉が使われていますが、我々の読者にはちょっと……頭痛いですね。どうしたらいいですかね。今さら先生に直してもらっても……」
城戸がオフィスに戻ってくると、編集長は迎えてきて、原稿を指差しながら困った顔をしている。
「あ、これなら大丈夫です。あとで頼みますから、直すのは大丈夫だと思います……」
城戸は原稿を受け取った。木島の言葉遣いは丁寧で、直すのはもったいないが、現代の出版業界で、ことに官能小説の業界は、やはり大衆の浅薄な品位に配慮しなければならず、作者の労作を裏切ることがある。
「本当ですか?よかった!鬼島先生……怒られないんですか?」
編集長はまだ落ち着かない様子だ。
「ええ、ご心配なく。ああ見えて、意外に話しやすいんですよ」」城戸は書類を素早く整理しながら、編集長をなぐさめた。
「ああ、羨ましい!鬼島先生の担当になれるなんて。才能あるし、本が売れるし、ましに話しやすくて。うちの黒川先生は、一字直されると三ヶ月も怒られましたよ」隣にいる佐藤は、わざと大きな声で文句をいう。
「そうよ。それに、鬼島先生は格好いいし、天使みたいに。声もいいし、怒られても嬉しい…」
隣にいる美希も口を挟んだ。オフィスはまるで、鬼島のファン交流会になった。
いきなり起こった鬼島ブームで、城戸は一瞬顔を歪め、あいつ、裏でどれだけ大変か、みんなわかってないよと切り返しそうになった。しかしなぜか、城戸は勝手にうなずいた。その褒め言葉に、これ以上は同意できないように見える。
周りの人が木島をどう見ているのか、城戸は普段あまり考えていない。城戸にとって、木島という人間は、評価でも憶測でもされている、旬がすぎた天狼賞作家または人気作家や生まれ 変わった鬼島蓮二郎ではなく、生身の木島理生だ。学生の頃は、木島に関する噂にはどこかよそよそしい恨みが混ざったと感じられた。のちほど、木島は社交的ではなく、他人とはあまり交際がないので、世間に確かな印象をあまり与えていないと城戸が思っていた。そのため、今日、木島に関する議論を聞き、なんだか違和感がある。
「ああ珍しい。お二人の仲は、作家と編集者からしてはベストでしょう」
編集長は議論をまとめるかのように嘆いた。それを聞いた城戸は心が氷に刺されるようにびくっとした。
ベストか。確かにそうかもしれない。真相がわからない人々からして、この公でもなく私でもない、数えきれない苦悩と遺憾が混ざっている関係がベストのように見えるか。
「すみません、鬼島先生を譲る気がありませんから、どうぞみなさんも頑張って、担当作家と仲をよくしてください」
城戸は手元にある書類を整理して、ついでにメールを二通返事して、木島に長く待たせてはいけないと思い、急いで立ち上がった。
「では、今日はこの辺で。明日は印刷のほうに最後の打ち合わせをします。みなさん、お疲れ様でした!」
と、城戸はダッシュでオフィスを出た。廊下の先にタバコを咥えて、光の中に立っている木島がいる。幻の影絵みたいだ。
「木島…」
城戸は声をかけたかったが、喉が詰まったようで、声を出せなかった。もう一度試してようやく声が出た。
「木島!」
すると、その光の中にひっそりと佇む人が顧みて、城戸を見た。ある瞬間、城戸はあの人が光の中に溶けて、うっかりしているうちに消えるのを錯覚した。彼は走っていって、木島の細いシルエットが確実に目に映ってからようやく安心した。
春も終わり、街のあちこちに青々とした風景が広がった。木島のマンションもそれほど遠くないし、急ぐではないので、二人は歩いて帰ることにした。奇妙なことに、明らかに説得力のない理由で同居して一年以上になったが、こうして一緒に歩いて帰るのはめったにない。
ある上り坂の途中、城戸はわざと足をゆるめて木島の後ろにつき、賑やかな世の中を孤独で軽やかな姿勢で歩いていく木島の姿を楽しんだ。過去も現在も一切を切り離して、時に木島の様子や動きにただ動悸を覚える城戸は珍しい芸術品を拝見する鑑賞者のように木島を見つめていた。
気がつくと、例の芸術品の血色の薄い唇が、何かを言いたげに動いた。城戸は空虚な幻想から引き出されて、足早についていった。
「さっきは何?」
「桜が散ってしまったね…葉だけが残っている」
木島はキャンディをなくした子供のように、少し落胆した。
「ええ、もう五月だから、道理で散る。まあ、今年はちゃんと花見をしたじゃん」
城戸は木島とともに頭を上げて、細かい葉で細かく切り刻まれた空と陽射しを見上げた。
木島はゆっくりと足を止め、城戸の顔をじっと見つめた。眼鏡の反射でぼんやりとした目つきだが、城戸はその目つきが自分の顔に釘づけになっている痛みを強く感じた。
城戸はわかる。自分は何かに触れた。そんなことはタブーにはならないはずと甘く考えた。わがままだった。
沈黙が続く何秒かの間は長い。
「ええ、きれいだね」
木島が微笑んでささやくと、それに合わせるように初夏の最後の桜がゆっくりと舞い落ちてきた。
溶けていく手のひらの熱さ、荒い息、顔が赤くなる言葉、重なり合う体、桜とともに消えていく永遠の妄想……映像や声は堰を切った川の流れのように頭の中に流れ込んできた。
「城戸君、今、何かまずいことを思いついたんだろう」
木島は下へ向かってにやにや笑い、チャラく対岸の火事を見ようとする。
ええ、とてもまずい。城戸は体内のある糸が急に引き締まり、上下に激しく引っ張られ、揉まれて異様な熱が出ると感じた。理不尽な暴君のように、彼は木島の手を握りしめ、マンションに引きずり込もうとした。
木島は彼に逆らなく、人形のように従順についた。手首に赤い筋がついていても、足がふらついていても、変に見えるかもしれないが、少しも逆らおうとはせず、むしろ城戸の激怒されたときの、みったらしくない暴走を楽しんだ。
コートはまたドアのところで脱がれた。
ドアを閉める音大きい……ドアに押しつけられてキスをされている時、木島は一瞬そう思いついた。このうすっぺらの鉄製のドアがこれほどの騒ぎに耐えられるか、騒音で訴えられるのではないか。ただ、その後すぐ、城戸の吐息を必死に吸う以外、何も考えることができなくなった。
二人のキスはいつも体への切なる要求とつながっていて、唇が触れた瞬間、手は思わずお互いを撫でた。撫でる順序が特にないが、ただ欲望にかけられ、節度がない。毎日会っているのに、海も渡って山も超えてついに逢う恋人のように、体のからみ以外、何も慰めになれない。
「あ…うん…うむ…」
木島の唇の隙間から漏れた細かい呻きは泣きながら何かを訴えているようで、気持ちいいか苦しいかまで見分けできないが、とても色っぽい。
ズボンが踵まで脱がれて、シャツもごちゃごちゃになった。木島は顔を赤くして喘ぎ、背中をドアに軽くもたれた。電球の黄色い光は優しく彼を包む。首、袖口と腿のあたりの裸になった皮膚は半分光に当てて、半分暗闇に隠された。
城戸は跪いて、木島の熱い欲棒を呑んだ。舌は尽きることがない欲望に伴い、根元の嚢袋から先端の鈴口までまんべんなく舐めては吸った。木島はこのサービスで心に無数の蜂と蝶々が舞いおどるように狂い、強い快感は熱い波のように、敏感する体の各部位を打った。彼は足を震わせて、倒れそうだ。自らの体と魂は城戸の舌に操られて、口元の出入りにつれて、欲望が熱く、硬く、大きく。
「うむ…ああ…いや…ダメ…そこはダメ……」
木島は罰を与えるように、城戸の髪の毛を引っ張った。城戸の髪はさばさばとしているのに、いまは全然そう感じられない。先端の鈴口が繰り返して舐められて、その裂けるように巨大な快感は木島の五感の機能をなくした。城戸はいきなり、それを喉までまで飲み込み、吐き出してからまた飲み込んだ。何回も繰り返したら、木島は意識を失いそうに叫びながら、すべてを出した。絶頂になった瞬間、木島は背筋をぴんと伸ばし、うなじをのけぞらせる姿は、瀕死の白鳥のように美しい。
狂おしい戦慄がおさまると、木島はすべての力を抜き取られたように、ドアにもたれかかった。城戸は口元に残った白濁液を拭き取る余裕もなく、驚きの声をあげた木島を抱きかかえ、彼と一緒に、二枚の堕落した葉のように地面に座った。
二人は狭い玄関でうずくまった。脱力した木島は目を少し閉じて、額には熱い汗をかいた。城戸は木島の背中を支えて、まるで無実な赤ん坊を抱いているかのように抱きしめた。城戸は時々木島に対して、訳がわからない愛おしむ気持ちが湧く。
そんな情けなさを感じながら、城戸は木島の乱れた服を片づけ、木島を横に抱えてリビングの方へ歩き出した。突然の宙づりに木島は緊張し、城戸の首に腕を回して顔を埋めた。そこにはまだ濃厚な、情欲の匂いが残った。
「これだけか」
ソファに置かれた木島は城戸が渡ってきたティッシュを持って、無造作に聞いた。今日はどうかおかしい。自分だけがいったので、木島はなにか債務を負うと感じる。まるで、それが城戸の片っ方のサービスだ。
「今日は…いや、まだ仕事がある。疲れただろう」
城戸は口元を拭きなから、できるだけ何気なく答えた。
「口元に、きれいに拭いてないよ」
木島は城戸に目をやって平気にそういった。
「え…助けて」
城戸は腰を下ろして顔を木島に寄せた。木島は頭を上げて、口でその恥ずべき痕跡を拭いた。
城戸は腕でかろうじてこの近すぎる距離を保とうとし、またすこし動揺する様子を見せた。木島の瞳までじっと見る城戸は呼吸が再び重くなった。木島は自分に魔法でもかけたかと、城戸は何度も疑ったことがある。
「城戸君…まだ仕事…あるじゃない」
木島は薄い唇を動かして城戸をからかった。悩ましい。
城戸もつられて笑い、安全な距離を確保した。二人はこういう暗黙の瞭解ができた。事態を収拾がつかないように気をつける。これだけの肉体関係を持っても、仕事の話になれば、真面目にする。
 
「なんで直すか、意味が壊れるよ…」
思う通り、城戸の修正意見を聞いた木島は眉をひそめて不快な顔をした。
「官能小説の読者は、読みやすさをより気にするよ。鬼島先生は美しくて意味豊かな言葉を使っているが、それを知らないと、読みやすさが損なわれてしまう……」
城島は丁寧に説明した。
「ふん……読みやすさなんか…絶頂に達しやすさじゃないか…」
木島は口元を歪め、せせら笑った。
「そう考えてもいいけど」
城戸は、木島の冷たい口調に怯むことはない。むしろ、木島のこのひねくれは氷が溶ける兆ではないかと、次第に理解するようになった。
「ただ、現実はこうだよ、木島。出版業は、少なくとも、通俗文学の出版業は、読者のため本を作ってる」
木島はとぼけるようにソファにもたれかかった。
「ああ、やっぱり僕には無理だね。直せないわ。それぞれの言葉にはあるべき場所がある。人もそうだ。やるべきことしかできないんだ」
「人は変わるんだ。言葉もそうだよ。違う?」
城戸は振り返り、何か運命的なことをいっているような真剣な目つきで木島を見つめた。
「そうだね…かしかに…」
城戸の注視で木島の目つきも心も柔らかくなった。城戸に対面したら、木島はいつも自分の意見を押し通すことができない。木島はわがままに見えるが、運命の前ではおとなしい。ただ、願うことが一つだけがある。それは、別れる運命から逃げることだ。
「やっぱり、鬼島先生は物分かりがいいね……」
木島の納得をもらった城戸は、冷蔵庫の前にきて、食材の在庫を確認する。
「お腹が空いているか。何か食べる?」
木島は相手をせず、目も動かさずにタバコに火をつけた。
「今日もオフィスで、うらやましいって言われたよ…お前の担当になることなんて……」
褒められると機嫌がよくなる。城戸は木島の弱みをよく知っている。
「そう?誰?佐藤?安田?なんだか自分がかわいいと思っている美希?ハゲそうな秋元、それとも心配性の編集長の福田?」
木島がぽつりと口を開く。
「えっ、お前…お前…お前は……みんなを覚えてるか」
城島はあごがはずれるように驚く。
「もちろん。もう二、三回会議をしただろう」
木島は相変わらずせわしくない口調で。彼を囲む煙もゆったりと漂った。
「それでー」
城戸は語尾を伸ばして、少し脅すように確認した。
「全世界のことを覚えていても、私のことは覚えていないよね」
「そうよ」
木島はようやく顔を背け、城戸を見て、やったというような嬉しそうな顔をした。
「はいはい……」
城戸はわざとらしく大きなため息をつき、冷蔵庫の中で宝探しを続けた。それがいくら冗談であろうと、二人の関係がどれほど錯綜していようと、木島の頭の中で存在感が薄いことは、城戸の自尊心を多少傷つけた。
木島はタバコの灰を落として独り言のように口を開けた。
「ただし、今はよく覚えているよ。城戸君の…臆病、心にある矛盾、狡猾、ちゅうちょ、凡庸さ、残忍さ…」
城戸の動きが固まり、冷蔵庫の冷たい空気が全身の血を凍らせそうになった。
「それに、城戸君の優しさ、まっとうさ、熱心さ、寛容さ、優しさ……」
冷蔵庫のパワーが強すぎるせいか、城戸の出そうになった涙までも凍った。
「そして、城戸の大きさ、形、匂い、感触、温度…」
科学用語らしい言葉がひとつひとつ木島の唇の歯の間から飛び出してきて、少しも誘惑の意味を持っていないようだが。
ドンと冷蔵庫のドアを閉めて、城戸は木島の方をにこやかに見て、シャツのボタンをはずしながら、ものすごい勢いで木島の方へ歩いていった。
「やっぱり……おめえ飢えてるでしょう」

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