往く日々と夜(17)(R18)
第十七章 同窓会
作者MiyaNaoki 翻訳sekii
「まだ着替えてないのか」
片手でネクタイを結んで寝室から出た城戸はソファに腰を下ろして、クリスタルリンゴをもてあそび、今日ものんびりするという顔をしている木島を見て、ちょっとまずいなと思った。
「急に行きたくなくなったんだ」
木島はリンゴを置いて真顔で言った。城戸はこめかみがぴくぴくした。やはり、こいつを外出して、平凡なクラスメートが集まる同窓会に行かせるなんて、うまくいくわけがない。今日一日、木島は穏やかで落ち着く様子を見せているが、やはり見せかけだった、と城戸が思う。
「出席の返書も出してあるし、席も決まっているのに、いまさら言いすぎだろう。早く着替えて!」
城戸はやれやれと催促し、下男のように木島のシャツとスーツ一式を持ってきて、着せようとした。
「でも、面倒くさいよ。いまこんなにダメな僕、行っても噂の的になるしかない」
木島は口をへこませ、悔しそうな顔をした。
「そんなことを言うな。どこがダメか」
城戸の気持ちはもろくなった。それでも、城戸は社会人としての常識がまだ残る。木島が出席するという噂はすでに同級生の間に広まっているから、今さら行かないというのはとんでもない噂になる。木島の隣に腰を下ろした城戸は、木島の目をじっと見つめる。
「じゃあ、この間はなんで行くと答えたか」
それはなぜだろうか。木島が口をすぼめて、城戸の期待した顔を無視したくなかったからだろうと答えた。そうだね、面倒くさがりで、付き合うのがおっくうなのは木島であって、城戸ではない。城戸こそ、あの子たちとはうまくいっていたし、もしかしたら、みんなと連絡を取り合っているのかもしれない。そこが城戸の本当に馴染みのあるところだ。平凡な人々がわいわい騒ぎ、お互いに適当に相槌をうち、適当につなぐ…そういう世間の掟がスムーズに運行しているところで、城戸はもっと居心地がいいのかもしれない。そして自分との二重な生活から、一時的に解放されるのかもしれない。それに、城戸の宴席での笑顔、真面目ぶった顔をふと見たくなった。それは久しぶりだ。前回は、蒲生田宅で飲んだ時、それから…その後は…と思えば、いろいろなことが思い浮かんできた。
思い出に耽けた木島はとっさに興味が湧いて、断る言葉を押し殺し、代わりに、目を細めて意味不明に笑い、行ってみようと答えた。城戸が怪訝そうに木島を見た。
まあ、自分から言い出したので、今さら反故にするわけがない。いくら自己中心でも、ここで駄々をこねるのは未熟だとわかっている。仕方なく、木島はのっそりと立ち上がり、わざとらしい様子で城戸を見つめ、リビングに堂々と立ってパジャマのボタンを外し、ズボンを脱ごうとしていた。城戸は背広で慌てて木島を包み、またカーテンを閉めようと大騒ぎしているうちに、作家さんのたくらみが実現したような笑顔を見損ねた。
木島はスーツが好きではなかったが、肩幅が広く、腰が細く、背筋が伸びていたので、スーツに本当に似合う。ネクタイを締めてやりながら、城戸はそう思った。あいつが他人を俗物と見下しても無理はない。
「ああ」
木島はふいに小さく嘆きを漏らした。距離が近かったせいで、その息が城戸の指にかかって、城戸は動きが固くなり、ついに訊いた。
「何?」
「あの…篠崎君も文学部だよね…」
木島の笑顔は湖のさざ波のように広がり、世をすね生意気な態度で楽しそうだ。
城戸は、木島の楽しそうな様子を見ていて、呆れたように可笑しいように思う。まったく、こいつは誰をも覚えているのに、自分だけが覚えられていないというのは、あまりにも挫折だ。
「まさか、彼女とまたやる気か。無茶にも程があるぞ…」
城戸はわざと憎々しげに言いながら、手にしたネクタイを少しずつきつく締め上げている。
「うん…ああ…」
木島は喉のあたりにかすかな圧迫で小さく呻き、口が少し頼りなく開いて、澄んだ目には苦痛と渇望が流れて、墨色の海のようだ。
その動作と凝視が、ある種の現実的な攻撃力を備えているかのようで、城戸はたちまち溺れたような息苦しさに襲われ、ほんのわずかな暴力でも、どうすることもできなくなってしまった。頭を下げて木島の唇を咥え、そそるような暗示を封印する以外、彼には何もできない。
木島の神業のようなぐずぐずする魔法のおかげで、二人が大学近くの居酒屋に着いたのは、約束の時間から四十分以上も過ぎた。城戸はシャツの一番上のボタンをはめなければならない。なぜなら、その下には赤いキスマークがいくつもついているから。二人は控えめにしようとしたが、このような場面にほとんど姿を見せなかった木島が、見事に会場の注目を集めた。酒を勧めたり、世間話をしたりしていたのが数秒止まってしまい、気まずかった。好事家の中には、我々はメンツが立つよ、天才作家がいらっしゃった!とからかう人もいる。学生時代から木島のことをうらやましく思っていた人たちも、次々と声をかけてきた。
あまりの注目に城戸は背筋をぴんと伸ばし、心配そうに木島をちらりと見た。幸いに、木島先生は、社交的ではなかったが、世間知らずでもなかったので、それなりに丁寧な応対をしてた。飛びかかってきて名前を呼べないクラスメイトには、親しく話すことはできないが、押し黙るほどではない。
クラスメイトもみんな世間知らずの生徒ではなく、それに城戸が隣にいて挨拶をしてなんとか場面をコントロールした。城戸に頼まれて、先に席を取っておいてくれた熱心な斎藤君は現れて二人に席を勧めた。城戸は木島を引きずるようにして通り抜け、この目立ちすぎたやつをいそいで席につかせ、賑やかなパーティの雰囲気に浸してもらうことが第一だ。何分か引き延ばされると、木島が気を悪くして帰ってしまうのではないか。
急いで席に着いて向こうを見たら、城戸は心の中でまずいと叫んだ。なんという偶然だ。大勢の人がいるのに、よりによって篠崎麻美と同じテーブルにつくなんて。そう思って城戸は、何もしらない斎藤君を睨みつけた。
「あの…木島さん、お久しぶりです…」
懐かしくて恥ずそうな声を聞いて城戸はますます違和感を覚え、元カノが自分ではなく木島に先に声をかけたことを不快に思っているのか、それとも元カノがまだ木島のことを覚えていることを不快に思っているのか、すぐにはわからなかった。もしかしたら、自分の顔があまりにもゆがんで、そのせいで木島が驚いた目で自分を見たのではないか。木島の視線を追ってみると、向こうの女性がグラスを持ち、手が小刻みに震えている。そこで、城戸は状況がいかに異様であるかに気づいた。実は、木島はそのことでいつもからかっていたが、自分のところから奪ったいわゆる元カノという人がどんな顔をしていたのか、まったく覚えていなかったのだ。
城戸が表情と言葉で一所懸命木島にヒントを与えた。それでも、まだわからなかったのに、礼儀としてグラスを持ち上げ、向かいの女性とグラスを合わせた。木島は本当に彼女が誰なのか覚えていない。それは、最初から覚えていないのか、それとも何年も経ってから忘れたかまでも分からない。そういう点では彼はクズだと認めなければならない。
あまりの無言の乾杯に、話しかけてきた女性は肩身が狭くなる。
「あの…木島さんは覚えていないでしょう。麻美です。篠崎麻美です」
篠崎?木島はハッとしたように城戸を見た。城戸が固まってしまった。——おいおい、ここを見るなよ。お前はどういうつもりで僕を見ているのか。しかし木島は説明しようとは全く思わず、むしろ真実が明らかになった時ににっこり笑って酒を飲み始めた。
城戸は、しらんふりをすると木島と人々の好奇の目にさらされて困っている元カノの様子を見て、二、三ヶ月だけ付き合ってふられてしまったとしても、今は同じ木島理生の被害者として助けてあげるべきだと思い、思わずグラスを手にした。
「麻美ちゃん、気にしないでください、木島さんはずっと文学をやっていて、頭を使うから、昔のことはよく覚えていないらしいです。僕のことだって、全然覚えていないんですよ」
「かまいませんよ、士郎さん。木島さんが私のことを覚えていなくても不思議はありません。あのときは…」
青春時代の事が最も悲しく、女の目尻に少し涙さえ浮かび、彼女はグラスを持ち上げて、一気に飲み干した。
「その時は…こっちが悪かったです」
呼び方から表情まで、あまりの実感に城戸は面食らってしまい、慰めるべきか憐れむべきか、口ごもってしまった。
で、この二人が言っているのは、僕は頭が悪いということか。木島はそっけなく城戸を一瞥したが、ひそかに白目をむいて、夢から覚めたような顔をして二人に近づいてきた。
「あ、思い出しました、あさみちゃんでしょ!実は、僕の記憶よりもずっと美しく大人になっていたので、しばらく分からなかっただけです。」
何を言ってるか…こいつ、そんなこと言ってる場合か。城戸は、袖をあげてテーブルをめくりたくなったが、大人で社会人としての理性がまだちゃんと働いている。
「そうそう、そうですね、文学部の女子はみんな、どんどん上品になってきましたね」
褒め言葉は女性によく効く。このお世辞で、一座の女たちは、うれしそうな顔をして、口をおおって笑いながら、いえいえ、年をとったよ、城戸君はいやだね、と言っていた。その時、焼肉がタイミングよく運ばれてきたので、多くの人の関心が逸らされ、香りとともに空気の緊張感が消えていった。
なんとかごまかせた。城戸がひそかにほっとして隣にいる木島を見た。木島は顎に手を当てて、少し酔ったような目をして、春風のように微笑んだ。相変わらず唯々諾々とする自分を揶揄っているようで、言いつけに従う自分を喜ぶようだ。城戸は何度も心の中で木島の意地の悪さとふざけたことを許して、また最も友好的な学友のように、人の目を盗んで、木島に何枚の和牛の焼き肉をすすめた。
世の中の同窓会というのは、テーマが決まっていて、昔話は最初のほんの一部だ。酒に酔うと、男は仕事を自慢し、女は家庭を自慢するが、文学部の同窓会というのは、やはりどこか違うところがある。なにしろ、みんな最初に出会うのは文学の力に感化されたおかげで、理想主義の時代があって、思想の中にも肉と血が満ちている。そこで、もっと激しい挑発と論争がある。
柏⽊が、酔っ払ってフラフラした勢いで近づいてきた。城戸は柏⽊を止めようと思わず立ち上がったが、ちょっと遅れた。
「木島君!新作は久しぶりですね。最近はどんな仕事をしていますか」
何年も経っても、柏木君は木島に対して、相変わらず闘志を燃やしていて、城戸は彼が初志を忘れていないと褒めるべきなのか、成長していないと揶揄うべきか、わからなかった。
木島は顔を上げ、目を細め、その人をしばらく見つめていた。城戸は緊張して手に汗をかいた。誰と木島が喧嘩腰に聞けば、テーブルが危なくなる。
幸い、木島は世界を忘れても、仇をよく覚えて、手をだした。
「ああ家業を継ぐために文学の夢を諦めた柏木君だったんですね。こんにちは。僕はいま城戸君がいる」
「あ!木島先生は僕の友達がいる出版社と契約しようとしているところです」
城戸が急に割り込み、自分でもびっくりするくらい大きな声で言った。
すると、木島は少し戸惑ったように城戸の方を見たが、やがてその目からは打診の色が消え、流れ星のようにくすんだ色に変わった。
「そうですか?大丈夫です、木島先生。僕はファンですよ。久しぶりに新作を拝読しなくて、もしかしたら、才能が尽きたのでは」
「おい、柏木!ひどくないですか…」
さすがに城戸が木島を庇って反論すると、まわりからも何人かが寄ってきて、小声でなだめている者もいた。
「そうかもしれない」
いつもひそひそ話していた木島は、そんな緊迫した注視の中で、少し声を上げただけで、騒々しい居酒屋が急に静かになった。
「才能が尽きるなんて、怖そうでしょう。でも、それは僕には関係のないことです。僕は才能で書くのではなく、ただ書く道を選んだだけです」
周囲から感嘆の声が上がっている。城戸は思わず手を叩きたくなり、少し夢中になって木島の方を見た。例の作家は誇らしげに顎を上げて、この部屋で一番明るい照明に向かっていた。輪郭には金色の線が引かれている。皆と同じ世間にいるのに、不老不死の精霊みたいに、神聖な感じがする。
「ハハハ……さすが君、木島、君のそんないやな顔を見ていると、僕たちはまだ年をとっていないような気がしてしまうよ!」
意地悪そうに挑発する柏木は、怒りもせずに笑った。彼は手を伸ばして木島の肩を叩こうとしたが、城戸が途中で止めた。
木島も珍しく口元を上げる。
「柏木君、慎んでください。老年の悲劇は、老いているところにはなく、まだ若いと思うところにあるって。」
「ワイルドの名言だ!君って…ったく」
「木島君ってもう…」
人だかりが押し寄せてきて、木島をその中に沈め、城戸は彼を引き寄せたくなったが、結局何もしなかった。木島は、仰視され、嫉妬され、相槌を打たれ、中傷され、噂に取り囲まれ、スポットライトを浴びる運命だ。どんなに暗い谷にいて、落ちぶれた生活をしていても、どんなに憎まれ口を叩いていても、その輝きを隠すことはできない。そのような人を城戸はわずかな未練や盲目的な崇拝で、そばに留めることができないのだ。
しばらくして、グラスや皿鉢などが散乱してきた。騒ぐ同窓会はもう一つのプログラムが残される。それは、学校に戻って昔のことを懐かしむことだ。ある好事家は、正門ではなくて、昔こっそりと酒を飲むために忍び込んだ南門から入ると勧めた。一行は南門から入って、桜の木の植わった小高い丘を越えて、管理人の巡査を避けて、淡い紙と樟脳の匂いが漂う文学部に戻った。
古い文科棟は奇蹟のように取り壊されなかった。当時天井に届くほど乱雑に積み上げられていた本はどこにもなく、がらんとした教室には落書きが重ねられている机だけが若くて無駄な日々を立ち会った。驚き、感慨、興奮といった、なつかしい声があちこちに響き、ある種のドラマティックなシーンになる。木島理生は隅にもたれて、じっと見て、聞いている。城戸士郎はそばに立って、ぼうっと木島を見ていた。いつもそうだ。木島は現実や理想を見つめるが、城戸はオペラ座にいる思いこがれるファントムのように、木島を注視している。
「わかってるって、もう行きたいんだろ、気づかないわけないだろう、you're the only one…」
誰が始めたのか、いきなり歌声があちらこちらから聞こえてきた。耳に心地よいというよりは、滑稽ですらあるが、そこには情熱がこもっている。また、人生に打ちのめされた痛みと憎しみも聞こえる。
「どんなことでも、無駄にはならない、僕らは何かを、あきらめるわけじゃない」
城戸も思わずうなり声を上げ、木島が驚いたように彼の方を向くと、城戸は少し得意げに笑った。過去を自慢するのは恥ずかしいが、城戸はクラブでDJをやっていたし、バンドもやっていたし、それなりに音楽の素養はあった。木島も城戸の幼稚な様子を見て、下を向いて小さく笑った。
「また会いましょう、いつかどこかで、忘れるわけないだろう、you're the only one、ドアを開ければ、道は眠って、踏みだされる一歩を、待ちこがれている」
歌声はますます大きくなり、歳月の経つのを感じさせ、酒に酔った興奮をみなぎらせた。人々は青春の哀愁を懐かしんで、煩わしい日常生活から一時的に脱出し、自由気ままにふるまおうとする。高らかに歌い、騒いで踊った。このような騒ぐ行為は、大学のキャンパスでは当然反則である。
「誰!そこにいるのは誰!」
文学棟管理人の威勢のいい一喝は、この反逆の祭りを止めた。古びた革靴の金ぴかの音の中、人々はあっという間にあっちこっちへ逃げ込んで、みんな笑って走り去る様は、昔のままだ。
城戸はあわてて人の流れに乗って階段を下りていった。全員笑いながら飛び散っていくのを見て、木島を呼びに行こうとしたが、その人は後ろにいなかった。心臓がドキッとして、しばらく茫然としてその場をうろうろしていた。いつのまにか、その人の顔を見なくなってしまったか、分からなかった。
しばらく考えてから、教室に戻ってみると決めた。久し振りの喧噪で目をさまして、また静かな廊下に置かれる教室にはさっきの歌声と笑い声がまだこだましているような気がしたが、耳を澄まして聞くと、自分の足音のほかには何もなかったことが分かる。
教室の明かりは消えていたが、暗闇の中に坐っている人が、城戸にはすぐに見えた。声をかけようとしたが、なぜか声が出られなかった。木島は窓枠に腰かけてタバコを吸っていたのだ。指の間にかすかに赤い火が見え隠れしていて、痩せた美しい横顔に冷たい月の光が映り、ただでさえ青白い肌の色に、幻想的な透明感を与えていた。城戸はふと、その光景が泣くほど懐かしいような気がした。彼は決して多感な人ではないが、多感な人ではないからこそ、今の心の中に渦巻いている感覚をどう表現すればいいのか分からない。
昔から木島は窓際に一人でタバコを吸うのが好きで、毎週のセミナーの後や、ときどき集まる朗読会のあとなど、誰もいない静かな夕暮れ時には、城戸は時折木島のことを気にかけていたが、じっと見ているわけにもいかず、ただやるべきことをやりながら、つい天涯孤独な影に目をやってしまった。
この人はどうしてこんなに寂しそうにしているんだろう。顔も、才能も、名声も、女も、みんなが慕い、誇りを思うものの全部を入手し、得意げに世間の凡庸さを嘲笑しているのに、なぜいつも悲しく、淋しげに見えるのか。
今にして思えば、あの頃の彼は、家庭不和で貧しく、日々の生活や学業に大きな負担を背負い、父との軋礫も調和できず、愛する文学を選んだのは肉親を裏切ったことに等しいという罪の意識で息が詰まるほど重く、さらには、世間の雑多な悪意から来ていたのかもしれない。そう思った城戸は、木島が他人の目を気にせず自分の世界に没入していたからこそ、平凡と世俗の誘惑に抗い続けて文学の道を歩んできたのだと、むしろ幸いに思った。
「入って。そんなところに立って何をしている?」
澄んだ優しい声が、城戸を黙考から引つ張り出した。城戸は、名前を呼ばれて、ぽかんとしたまま、呪文をかけられたかのように、窓辺の呼び声に近づいていった。
「帰らないか?みんな散ってしまったよ。」
城戸が近づいてきて、窓辺に半分もたれ、木島と同じ月の光を浴びているうちに、自分の疑問も虚しくなってきて、すべてが浮遊する水草のように、出入りする夢のように感じられた。
「そうですね…もう少しいたい」
木島は細い指を上げて、細長いHOPEを唇に送り、浅く吸って、ゆっくりと煙を吐いた。その煙の向こうに隠された顔は曇らせられた。
城戸もタバコを出してくわえた。ライターを出すのが億劫なので、木島の唇の間にあるタバコにつけて、深々と息を吸い込んでいると、一瞬、タバコの先端が真つ赤になってはくすむと、むせるような匂いが二人の間に広がる。まるでキスでもしているかのような至近距離で、木島は城戸の頰をはっきり見える。少しこけた部分や、しばしば彼を痛めつけた無精髭や、少し長めの垂れ気味の目を。
彼は少し見入った。挑発するように、柔らかい言葉で、唇の周りを廻る煙を優しく送った。
「すみません、その時、君のことを覚えていないって」
「別に…お前が覚えていないのは、私一人ではない」
城戸は口元をほころばせた。
木島は黙って自分の指の間にある火を見て、答えているようにも、自分に言い聞かせているようにも言う。
「でも…………君のことを覚えたい……これからも、そう思う……」
木島の月光のような目つきは、そのまま二人の間の煙をくぐり抜けて、城戸の指に止まる。
「だから、何か記憶に残ることをしましょう…こんな有意義なところで…」
城戸は夜風に揺れる色気を感知できないほど鈍感だったのではない。さすがに体も鼓動している。ただ、夜9時以降の大学の講義室にしては決していい思い付きとは言えない。
木島は気にした様子もなく、思い切って窓枠の上でタバコをもみ消した。ためらいを一瞬にして灰にしたら、突然羽を広げた鳥のように城戸の唇にキスをした。二つのタバコの匂いが混じり合って、ゆったりとした協奏曲のようになる。
城戸はその口づけの中に沈み込み、木島の後頭部を押さえて引き寄せ、探るような舌をくわえ、繊細な吸い方をして、唾を交換した。月の光はバラバラに砕けて、まるで二人の息のようだ。
「うむ…万の一…近藤さん、あのじじがまた現れたらどうする?」
舌打ちをしても、城戸は文学棟の管理人に支配される恐怖を忘れなかった。
「どうするって…うん…ふふふ」
木島は彼の唇の間で軽く笑ってから、わざと城戸の舌を軽く噛む。
「城戸君に……訓告処分…下そう……」
そのあからさまな嘲笑が、もちろんこの時の城戸には刺激になった。城戸はキスをやめて距離を取り、わざとニコニコ笑い、木島がいくら触れても満足してあげなかった。
「うん……うむ……」
木島は鼻を鳴らして促し、食いしん坊の子猫のように、夢中に城戸の口元をこすりつけた。
「大丈夫だよ…じじは9時半以降はこない……君も知ってるでしょう」
木島にこすりつけられた城戸は欲望がこみ上げたが、意外に頑固になって、簡単にはやらせまいと、誘惑にも負けずに、わざと後ずさりをした。
木島はその非情さに腹を立て、少し細めていた目を丸くした。
「やるかどうか!」
城戸は満足に笑みを浮かべ、ぼんやりとした月光に、そして木島の求めるような凝視の中で、その濡れて赤く腫れた唇を、指でゆっくりと力強く撫でた。
「だったら……木島君がどこまでやれるか、見せてもらいましょう」
過去は補修することができないが、理解され、美化されることができる。木島はこのとき、あたたかい口腔で、過去への時空の通路を構築しようとする。彼はよく覚えている。初めて生贄のように城戸の肉棒をくわえた時、耐えられないほど強烈だと思っていた屈辱も恥じらいも、すぐに消え去り、代わりに自分はここにいる以外に何もない、ただこの男を喜ばせることだけに夢中になっているような、体の内の風雲が巻くような動悸に震えたことを。自分は、自分の舐め吸いと包みの中で城戸が膨れ上がるのを感じるために存在し、肉棒が喉に当てて震わせ、城戸が自分の上でやばっ…やばい…いく…と叫ぶのを聞いたら、なぜか至高の快感が自分の全身を襲い、麻薬中毒のようで道理にかなわない。
今もまた、過去を続くような、自分を見捨てるほど相手を愛する感情が現れる。城戸と一緒にいると、ひとつひとつの言葉が自己放棄の冒険みたいだで、木島理生という人間が、どれだけ堕落し、愚かで、害を及ぼすことができるのかを、絶え間なく探知するようになっていく。
窓枠の陰に隠して城戸の股間にひざまずき、城戸の肉棒をみなぎらせ、口の中で熱く硬くなり、城戸に息を吸わせ、震えさせ、最後には自分の髪をつかませ、乱暴な者にならせる。木島は城戸士郎をクズにする過程に夢中だ。
だから木島の舐めは、彼自身の身も心も沈み、意識が空虚と迷いの滑車にねじられて高いところにぶら下がっているほど、繊細で深刻だ。
しばらくして、城戸は木島の頭を押さえて、爆発しそうな肉棒を抜いて、それから彼のあごを持ち上げて、抵抗できない大きな力で立たせ、引き寄せられて、また強くキスする。舌の先にさっきの味が残っていて、長い間広げられていたために口がぐにぐにになった。木島はほとんど一方的に、受動的に、この激しいキスに巻き込まれたが、少しも恐怖を感じず、城戸が自分を喜ばせてくれることを、盲信していたのだ。
熱い口づけの余韻の中で寝返りを打たれ、窓枠に押しつけられると、木島はその好きな姿勢とこれからの非情な犯行への期待のために、甘美な呻き声を上げた。彼は自分のすべての感覚を開放して、収縮と微張の中で、氾濫する欲求を存分に感じる。彼は自分の体の一部が暗い夜の空気の中にじっとりとさらけ出されるのを感じた。惚れ惚れしていた硬いものが、割れて入ってくるような気がして、気が狂ったように城戸の腰に後ろ手でしがみついて、必死に中へ連れていった。
猛々しく入れられ、滅ぶように突っ込まれ、ぐにゃぐにゃにされ、濁液が流れ、指は窓枠の縁にしっかりと留められ、冷たい風が指の間を通り抜け、古い木の棘が皮膚に突き刺さったようですが、そのかすかな痛みは、もう知るひまもない。
痛みと愛が入り混じった、荒い息づかいの中で、彼は懸命に顔を上げ、暗闇の中を見返してもよく見えなかった。ただ体が密着しているので、その人を実感している。
「城戸……僕は……覚える…あ……あ……うむ…」
月の光が揺らぎ、愛の念が散り、言葉がバラバラで、時間は粉々になる。ずっと一緒にいる準備がまったくできていない。
——しかし僕は……覚える。いつまでも。