往く日々と夜(6)(R18)
第六章 優しい人(上)
作者MiyaNaoki 翻訳sekii
城戸は優しい。それは木島が早くから気づいたことで、その優しさが好きだと言っていた。実際、そのような囁き声や、行き届いた配慮、従順さは、たしかに木島を夢中にさせる。が、温かいスープを飲むのがほっとするが、熱くて舌がピリピリすることもあるように、城戸の優しさも、時折、木島の心を刺す。ただ、それは木島が解決する課題で、他人の課題ではない。
例えば、今、一週間も家に引きこもっていて、机の前に根を張りそうな木島は城戸に無理矢理説かれて連れ出され、一緒に買い物をしている。1時間以内と約束したのに、家から三つ交差点のところで、迷子の女の子のために二人は立ち止まってしまった。
木島は子供が苦手だ。もともと子供に接するチャンスがほとんどなく、実家にいる時、美優の世話もしたが、それは見ただけだ。美優はとてもおとなしく、時には彼より大人びる。石川啄木の詩集を一時間以上読んであげても、あの小さい美人がにっこり笑って彼を見ていて褒める。「理ちゃんの声は本当にきれいだ!もっと読んで、もっと……」木島は時折、自分に対してこれほど寛大になったのは、彼女は自分の前世の恋人かもしれないからと思う。
経験が限られ、興味がなく、また、別に可愛い生き物を見て動けないわけでもない木島はいま、城戸のそばに立っている。例の城戸はうずくまって、道に迷って泣いている女の子を辛抱強く慰めているのを見ている。ふと、自分とその温かい場面の間に、大きな隙間がぽっかりと開いたような気がした。
「お嬢さん、お名前はなんですか。家を覚えているか……お父さんとお母さんの名前は?」城戸は半分仰向けに、わざと子供じみた口調で聞いた。これまで見てきたものとは別人みたいだ。見慣れない溺愛と嬉しさを含んだ笑顔で、少女の涙をぬぐう彼の指の腹の柔らかさは、考えてみれば同居人の体に触れる感覚ともかけ離れている。人間愛に満ちたこの光景に比べれば、自分はあまりにも身勝手で卑俗だ。木島の心には淡い自責の念が浮かぶが、同時に悪い思いも起った。
「あら、カナ!カナ!…なんで一人でここまで来たの!大丈夫?」慌てた様子のある女性が道の向こうから駆け寄ってきて、女の子に抱きついたり、頭を撫でてなだめながら、「本当にありがとうございます。お店でちょっと話していたら、この子がいなくなって……」
「大丈夫……気をつけてくださいね!」城戸は明るく笑って、親子に手を振って別れた。
本当に、優しい。気持ちが悪くなるほど優しい。木島は近くのコンビニに逃げ込み、ガラス戸のうらに立って、思わず胸を押さえた。つらい。誰が見てもニヤニヤしてしまうようなシーンなのに、なぜか自分は背中が寒くなったり、めまいがしたりする。木島は自分がいかにおかしい人間であるかをはっきりと自覚し、そしてまたその認識に哀れを感じた。
彼はドアの脇にある冷蔵庫の前に立って、アイスクリームの味を考えているふりをしたが、城戸の方をずっと見ていた。他人事から手を引いた後、木島がいなくなったことに気づき、あたりを見回し、途方に暮れた顔をしていた。また木電話をかけて木島が電話に出るを待っている間に顔をしかめて足踏みをしていた城戸を。
ポケットの中で震えるのを無視して、歪んだ喜びを感じながら、誰も出てこないことに苛立っている城戸を眺めていた。
がっかりしたような顔をしている城戸を見て、木島は少し慰められるような感じがする。これこそが木島の望みだ。あの人に何よりも大切にされたい、それは決して高尚で正しい考えではないことはわかっていても、どうしようもない心の中の小人は、その薄暗い一角にうずくまって、気弱そうに微笑んでいた。
携帯の音が四回もポケットの中で鳴り、木島はふと自分の行動に退屈を感じて、つまらないいたずらをあきらめ、何事もなかったかのように、お酒を何本かとアイスクリームを一本持って、ガラス戸を開けて出て行った。
「木島!……コンビニに行ったか。言っといていいのに」まだ周りを見渡している城戸が彼を見つけると、急いで迎えに来て、木島の持っていた袋を受け取った。文句を言いながら、木島の肩をつまんだり、腕をつまんだりして、自分の視界を離れている間も彼は無事であったことを確かめるようだ。
その気遣わしげな様子に、木島はまた心を和ませた。彼はたくさんの細い棘のある言葉を考えていたが、今は収まり、大輪の花になっている。それでも顔には何の表情も見せず、いらいらしたような、気にしないような表情で、手にしていた溶けかけのアイスクリームを城戸の口に近づけた。
木島の現れに喜んでいる城戸はアイスクリームが口についたから、思わず舐めてしまった。甘い苺の味が、ひんやりとした感触とともに口の中で溶けていき、街も天気も何も変わりがないが、急にロマンチックな気分になった。
木島もぽかんとした。まさかこれほどの効果があるとは思わなかった。そのピンク色の甘さが、城戸の舌の動きとともに広がった。妙なときめきを感じて、木島も舌を出して舐め、また城戸の口に持っていった。「溶けそうだ。早く食べてしまわないと」城戸は目を伏せて素直に応じた。すると、男二人が道端に立ってアイスクリームをぱくぱくと食べた。この場面は妙だったが、木島は面白がったので、手についたベタベタの溶けたアイスにもさほど嫌にしなくなった。
優しい人は、断ることを知らないので、鈍感のように見える。木島はそれに腹が立つが、その優しさは暴虐の怒りをいつまでも甘えや恨み言に変えてしまう。手のべたつく感触を水流で洗い流したが、ある歪んだ期待は洗っても落ちない。木島は思った。
「お酒を買いすぎ…」城戸の声が台所からかすかに聞こえてきた。体に悪いとかだろう。木島は聞きもしなかった。酒やタバコが健康に悪いことは知っているが、それくらいの精神的救済がなく人生はつまらない。そもそも、木島を地獄に推したのは誰だろう。
日曜日の午後はいつも落ち着く。新刊の執筆に没頭している木島はずっと書斎で仕事をしているし、城戸はリビングで本を読んだりメールや雑用をこなしたりして、時間が来たら夕食を作り始める。そして二人で食事をし、食卓で新作の詳細について語り合ったり、最近の話題や日常の面白さを語り合ったりする。まるで十年以上の夫婦のような仲むつまじく過ごしている。
しかし、この午後は、いつものように静かな展開にはならなかった。城戸がリビングに散らばっていた本の整理をしていると、思いがけない電話がかかってきた。
「もしもし!城戸!いま時間ある?」社長の声が、ハンズオフでも聞こえないほど大きく、耳が痺れてきた。城戸は思わず携帯電話を遠ざけた。
「僕?……別に。家にいます。」いまは作家先生に付き合って、仕事をしていると言ってもいいし、プライベートで、パートナーと週末を過ごしていると言ってもいい。
「早く出て!美希ちゃんがまずいことをしちゃった。この前の増刷した本は、間違ったあとがきを使って、それは平和島先生が前にわざわざ訂正したものだから、増刷した1000部は使えなくなっちゃって、富瑛印刷の方が怒っているよ!ああやばい。あなたの方が経験豊富だから、早く美希ちゃんを連れて行って、ちゃんと謝って、予定通りに刷り終わってもらって、それから……ロスの確認も、話をしたほうがいいよ。」
「別に僕の担当でもないのに……」そう言いたかったが、まだ理性が残っていて、口のまわりで「はい!すぐ行く!ええ、きっとうまくいく!社長、ご安心くださいますように……」電話が切れた後、書斎のドアの隙間から、あからさまに不機嫌そうな顔をしている木島を見て、ぎょっとした。
「出かけるの?」木島がドアを少し開けた。その目に込められた疑惑と恨みが、はっきり見えた。そんな目で見つめられると、城戸は心細くなる。
「あ、美希さんを連れて、印刷所の方へ。あの、美希さん、あんたはよく知っている、この嬢さんが……」普通な仕事内容の紹介なのに、城戸は浮気を隠しているようにどもるようになった。木島の顔色はますます悪くなっているように見える。
「知らない。興味ない。」木島はぶっきらぼうに言い残して、ぴしゃりとドアを閉めた。城戸は、その怒鳴り声の中にしばらく突っ立ち、どうしようもわからなかった。ついに、仕方がなく、書斎のドアをノックした。
「木島…木島…」ドアの向こうでは何の返事もなかったことからして、木島の怒りは原因不明でかなりの勢いだったようだ。城戸は木島が思い詰めているのではないかと心配したが、仕事に行かないわけにはいかないし、どうするか迷った。自分が真っ二つに分かれて、半分は社会のすべてのルールに従い、半分は木島の期待に応えたいとさえ思っていた。
「木島…僕、もう行かなきゃいけません。夕飯はさっき買ってきたお弁当で、レンジで温めて食べます。一分30秒でいいから……」城戸は自分のことを家政婦のように感じたが、木島がスープを温めすぎて火傷をしたことを思い出すと、いきなり木島一人を家に残すのは酷だと思った。「まあ、あとで出前を取っておくから、その際、ドアを開けてね」
独り言のように念を押すと、城戸はドアにもたれて聞いたが、書斎には何の物音も聞こえなかった。木島が何を気に病んでいるのかわかっている。だが、仕事は行かないわけがないから、あとはあとで。帰ってくる時、もしかしたら木島の機嫌はよくなる、と自分を慰め、ドア越しに「じゃ、またあとで」と呟き、返事を期待せずにこの安らかな午後を去っていった。
机の前に座っている木島にとって、ドアの外から聞こえてくる言葉のひとつひとつがひどく耳障りで、原稿用紙に書かれた字が歪んで、不気味に笑っていた。しまいには、玄関のドアが閉まる音が、心臓をはさむようにして、胸が痛くなり、息ができなくなった。
不思議だが、今日は晴れていて、暑さも消えているし、哀しむべきことは何もないし、城戸と破ってはいけない約束もない。もともと、残りの時間をいつでも艶っぽい文字との戦いに使うつもりで、城戸がガードのようにリビングで待機してもらう必要がない。しかし、認めたくなくても、城戸がいるかいないかは、自分には無視できない影響を与えていることは確かだ。その人がリビングや台所にいる、またはそばにいると、木島は自分が持ち上げられているような気がする。それは雲の上まで持ち上げられているような感じではなくて、もっと軽くてあたたかい感じだ。奈落の底に落ちたり、汚れた沼に落ちたりすることなく、いつも清潔そうに見える生活を維持してくれる。創作で困難にあった時は、このような安らかな付き合いが、とても重要だ。
新刊の執筆がうまくいかない。前作が売れすぎて読者や出版社からの期待が高い。創作は階段を登り、息を切々として我慢すれば一層上に上がるものではない。ベン先から文字が流れているのだが、何段か書いたあとで読み返すと、なんだか下品で読めないような気がして、また原稿を破って書き直したりしていた。
魂は欲しいときに勝手に手に取ることができる、皿に盛られたリンゴではない。木島はよく知っている。表現や欲望を書かくことにおいて、自分はまだ没入し、熟達することができない。これまで得てきたものの多くは、自分の感性や文学性への鋭敏さ、独自の表現方法に頼っていた。木島はまだ官能小説の本質をそのまま受け入れて、掘り下げたわけではなく、蒲生田先生がかつておっしゃっていたように、彼は才能と経験だけで官能小説家を演じていたのだ。
この秘密の、赤裸々で哀しい舞台の上で、城戸は彼が強引に引き留めた相手役の役者であり、彼が喜ばせる唯一の観客でもあった。首を搔いて誘惑し、裸にし、尊厳を低くしても、目の前にはただ空っぽの暗闇が広がる。それを思いつくと、木島は抗いようのない悲しみと恐怖に、押しつぶされそうになる。
昔はそういう創作に苦しむこともなかったわけではない。そのときの対策は、今も生きているはずだ。彼は書斎を出て酒を取り、がらんとしたリビングに座って手酌で酒を飲んだ。アルコールは舌と喉を刺激し、孤独感を薄め、虚ろにさせた。視界はますます薄くなり、見えるものすべてが歪み始めると、人間は鈍感になり、些細なことで苦痛を感じなくなる。
二日酔いで城戸に説教されて以来、ずいぶん酔っぱらっていなかったが、それは酒の害を見抜いていたからではなく、単純にあの人に迎合していただけだった。木島はわがままで自己中心的だと思われがちだが、実際はそうではない。
誰も信じられないが、きつい酒こそ木島を目覚めさせる。ガラスに映るいたましい顔こそ、最も真実に近かったのかも知れない。自分を苦しみの原因を頭の中で分析することもできた。
消えない孤独感がもちろん、一番先だ。次に来るのは、唯々諾々と言いつけに従う城戸の弱さだ。彼自身も、他人を断るのが面倒で、男女の関係が混乱した日々があり、投資に失敗し、貧しい生活に落ちぶれたこともあるが、そのために感情的な代価を払ったわけではなく、すべての損失は金銭的なもので、気にしていなかった。が、城戸はそうではなく、その仕方なく相手に負けて従う様子はもどかしい。
共感というのは愛の表しだが、相手の感情を敏感に感じ取り、さらに木島のように自分の想像や解釈まで入れてしまうと、わけのわからない悲しみに陥りやすい。自分はゆったりと落ち着いて生活できるのに、あなたの不甲斐なさのせいで、こんなにつらい思いをしているという理不尽な、怨婦のような言葉が頭をよぎっている。一瞬の思いでも、木島は恥ずかしくて、床の底へもぐりこみたくなった。
城戸のことが好きなのは、優しくてまっとうな人だからと言っていたが、今思えば舌をかんだような気がする。ええ、優しい人はいつも簡単に他人に感情を出している。友情でも、愛情でも、どうでもいい人情でも、残り少ない感情は、ワイルドの童話にある幸福な王子のように、身につけた金の葉が見えない手によってばらばらに剥がれ落ちている。
金の葉が、自分の目の中だけできらきら映って欲しいと木島は思っていた。それは木島が求めるものではなく、自然にそうなるべきだ。まして、木島が求めて達成しない可能性もある。
木島が城戸の外出に怒っているのは、知らない女の子や、電話で十数分挨拶を交わした昔の友人や、もしかしたら付き合いもない同僚に嫉妬しているだけだと気づいた時、彼は城戸が当時、「あなたとー緒にいると自分が嫌いになる」と言ったわけを少しわかったような気がした。彼は今、自分を憎んでいるのではないか。才能の尽きた、愛想の悪い、せせこましい野郎を。
酔っている間に、木島は頑張って自分を説得していた。城戸は一生懸命に生きている社会人であり、仕事が忙しく、彼なりの人脈があり、彼なりの将来があるが、その中に必ず木島理生がいるわけではない、と自分に言い聞かせた。今、木島理生がいなければ、彼が仕事に出ていることを謝る必要はなかろう。それが城戸にとっては余計な負担だとわかっていても、木島はそれを納得して許してあげることはできなかった。
一本はすぐに空になり、次の一本を開ける隙間に、朦朧とした意識の中で携帯を呼び出したが、向こうから聞こえてくる音は機械的な音声だけ。何度もかけ直したのだが、城戸の声は聞こえなかった。彼はますます腹が立った。頭がはげしく痛んだ。彼はすぐに眠ろうと思った。
「今日は本当にご迷惑をおかけした、城戸先輩。週末なのにこんな時間まで…全部、私のせいです。
「大丈夫です。早く帰りましょう。今度気をつけて。」
城戸は窓越しに美希に手を振って、慌ててタクシーを拾った。思いもよらず、富瑛印刷は被害を減らすために、製本していない本から間違ったページを取り出すのを要求した。ミスをした立場だったので、衝動的に引き受けたが、処分する本はなんと2000冊以上にもなり、美希と休む暇もなく、目を通す暇もないほど働いていた。
携帯を取り出すまでは、長い間、一本の電話もメールもなく、異常だと不安な予感がしていた。携帯電話がまったく電波が入っていなかったことに気づいたら、城戸は緊張感を覚え、心の中に砂利がたくさん落ちてきたような気がして、手のひらに汗をかいた。慌てて携帯電話の電源を入れ直すと、未読のメールを読む間もなく、着信履歴には四十件以上の着信があり、そのほとんどが木島の名前で、また見慣れた出前の電話が入っているのをみた。頭の中が空白になり、急げと運転手に催促した。
事実、自分が瞬間移動することができ、次の瞬間にはあのマンションに帰れると思っていた。木島がどんな気持ちで何度も電話をかけてきたのかを考えると、心臓に鉛が巻かれたような重い気がした。