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往く日々と夜(19)(R18)

第十九章 忘れ物

作者MiyaNaoki 翻訳sekii

「突然お訪ねして、大変失礼ですが…」
向かいの席に座った婦人は素っ気なく髪を整え、眉を下げて頷いていて、ありのあふれる日本人主婦のように温和で恭順に見えるが、時折ちらつく鋭い目つきと指でカップの縁をつまむ仕草は、木島に悪い予感をする。息子に黙ってこのマンションに来たこのおばさんは決して挨拶できたわけではない。
「士郎がいつも木島先生にお世話になっていますから、私からもお礼を言わないといけないと存じます」
まっすぐに木島のほうを見る婦人の目には、礼儀正しいが何か冷酷なものがある。木島は少し不快になり、目を伏せて、テーブルの曲がりくねった模様を見ていた。
「木島先生は若くして文学賞を取っていらっしゃいますよね。士郎から伺いましたけど。あの子、大学生の頃から、作家になりたいとちょくちょく言っていて、木島先生の本を読んで、すぐやめたそうです。しょうがないね、才能の差があるとは認めなければなりません」
そのくどくどとした、世間話の挨拶のような言葉は、何かの褒め言葉のようにも聞こえたが、木島の柔らかい心に、氷のかけらのように突き刺さっている。
「士郎はそれほど才能がありませんが、それなりにしっかりしているから、木島先生とお友達になれたことは、幸いです。このわたしも母親として、とても嬉しく思っています……ただ、先生とは、やっぱり違う人なんです」
——知っている。ずっと知っている、二人は違う人間だと。しかしそれでどうなるか?世の中にまったく同じ人間がいないのに。
「実はですね…私は重い病気にかかって、いつこの世を去るかわからないが、その前に、せめてあの子がシンプルに、幸せに生きていくのをみたいんです。恥ずかしいですが、それを何度も言っていましたが、あの子、全然聞いてくれなくて…この歳になって、家庭も持てずに…それで見下されると、士郎も悩んでいるでしょう……」
¬——そうか。知らず知らずのうちに、自分が他人の幸せの邪魔になったか。善良な母親を傷つける罪人になったか。何年経っても、父親の呪いから逃れられず、残忍な加害者になってしまったのか。
どのように一つひとつの言葉に丁寧で穏やかに応えて、また、老婆心のこの婦人を駅まで送っていったのか、木島は覚えていない。言葉の響きはもちろんわかるし、納得してもしなくても、しっかり理解している。駅で頭を下げて別れを告げる婦人のよそよそしさと遠慮の様子は、必死に抑えようとしている怒りと嫌悪を、はっきりと木島に伝わってきた。
家に帰って、ガックリとソファに腰を下ろし、一箱のタバコを吸い終わるまで、木島は感情の余震から逃げなかった。ぼうっとして、ふらふらして、時間がどこへ流れたかわからなくなって、体まで透けて虚ろになって、芯がなくなった。
何か反応したり、決断したりすべきだが、木島はただぼんやりしているだけで、何もできなかった。再びドアの音がして城戸が入ってきて何か言い、スーツケースを出して荷物を拾い始めたのを見て、木島はすべてが流転し、変化していて、自分が何もしないからといって停滞しないわけではないことにようやく気づいた。
人を引き裂いてしまいそうな会話は、ほんの数時間しか経っていないのだが、それが目の前の光景と相まって、なんとも切ない宿命感があった。
「そんなに急ぐか?」
木島は寝室のドアにもたれて、ダンスから洋服を取り出してスーツケースに詰め、避難するように慌てていた城戸をみている。
「うん…さっきも説明したけど、おふくろが東京に出てきて、具合が悪いから、お医者さんに診てもらって、また福岡に帰ったら入院しなきゃならないそうだ。ちょうど休みが取れるので、しばらく看病しなければならない…」
城戸は荷物をまとめながら説明した。セーターを何枚も入れたが、歯ブラシやシェーバー、そして好きな本は入れてない。ただ、マフラーは入れた。木島は聞きたかった。すぐ出発するか。いつ戻るか。そもそも、城戸は戻るか。多くの疑問が木島の唇の端をうろついていたが、言い出されなかった。
「心配無用だ」
木島の不安を察した城戸が、荷物を置いて近づいてきた。
「大丈夫。一週間だけ帰って、せいぜい二週間ぐらいで、姉の予定ができて、時間ができたら戻ってくるから。北川さんや美希さんたちには、食べ物は定時に届けてくるように言ってあるから、何か必要なものがあったら、こちらからでもいいから連絡して、手配する。」
木島はふてくされたように口をぺちゃくちゃにして、わざと城戸の顔を見ないようにした。
「君がいないと、僕は飢え死なない。子供じゃないし」
「はいはい、子供ありません。そういう意味じゃなくて、お前のことが心配するなんだ」
城戸が笑いながら木島の肩をつまんだ。今では、城戸は木島の性質にすっかり馴れている。
これ以上、渋々、手放せないような顔をするのは、あまりにも筋違いだと木島はわかっている。自分のように半年以上も実家に電話をかけない人はむしろ珍しい。ただ、城戸がすべてを片づけ、スーツケースを持って部屋のまん中に立って何かを見過ごしているのを見ていると、どうしても永遠の別れのような気がして、目の縁に涙が湧いてきて、息をひそめていた。仕方なく、木島は呼吸まで軽くして、何も言えなくなる。
しばらくして帰るだろうと思ったので、城戸もざっと確認しただけで、あとで木島に言い付けようとしたが、木島の表情に刺さされた。木島がどうしてこんなに虚ろで悲しそうな顔をしているのか、彼には少しわからなかった。普段は少し偏屈で、神経質で、生活能力が劣っているが、そこまで悲しむことはないだろう。自分はしばらく帰郷しただけなのに。
ただ、考えてみれば、この二年あまり、木島と長く離れていたのは初めてだったし、木島が一人でどうやって生きていくのかを真剣に考えると、また胸が締めつけられるように心配する。
「木島…」
彼は小さく呼びかけて、木島のそばに行って抱きしめる。彼をしっかり抱きしめた時、初めて周りの世界が穏やかなことを感じる。
「もう出発しなきゃ。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、体に気をつけて、電話には出て、いい?」
木島も城戸を抱きしめ返して、肩に頭を預けたまま何も言わない。応えさえなければ、城戸が出発しない錯覚があるが、時間は刻々と過ぎ、起こるべきことはついに起こる。電車は走り去り、ふるさとからの声は催促し、明日はついに来る。そんなことは、ちっぽけな木島理生に変えられない。木島は不器用なやり方で、全力で引き留めることしかできないのだ。
別れの抱擁が終わった後も、木島は手を離そうとせず、ただ城戸を凝視していた。目が、すべての口にしたことのないことを言い出した。彼の唇はただ頼りなく迎えて、慰めのキスを求めていた。
ようやく城戸にキスして、城戸も彼に頭を下げてキスする時、二人の唇と舌は一度触れるとすぐに絡み合って、口腔、舌の底、舌の感じやすいところに触れて、息と津液で魂を父換して、ずっと心の底の最も深いところまで深く、更に深く求める。感情的になると、城戸は木島の唇を包み込み、蜜を味わうようにゆっくり吸う。二人はお互いの息づかいやリズムに慣れていて、それほど好きだから、何度のキスをしても、そのたびに自分を見失い、本能だけで慰め合い、満足し合い、落ちぶれていく…
 
「うん…うむ…城戸…そこをキスしてくれ…」
木島は軽く喘ぎながらベッドに倒れ込み、相手を誘惑する。熱烈なキスは首筋から、胸や下腹部まで燃え広がる。木島は自分にはこのような赤裸々な方式でこの男を縛る能力がまだあることを喜んでいた。彼は喘ぎながら体をくねらせ、自分を包み隠すことなく開き、心の中で禁を犯す喜びを躍らせていた。
濡れた後穴は指で掻き分けられたかと思うと、絡み合う痛みと痺れで開いたり閉じたりし、切迫した感じで吸い込む。城戸の指を迎え入れ、内側で曲げたり掻き回したりされながら、柔らかい内壁を刺激されるのを任せて、木島は自らの魂とプライドが少しずつ掻き砕かれ、湧き上がる情欲と一緒に溶けて、体の幽径を浸潤する蜜液になると感じた。
「いや…これはいや…」
木島は白い顎を上げ、軽く眉をひそめ、甘えるようにつぶやいたが、下半身は本能的に締まっている。指がこすられた細い筋にぎゅっと押され、二本の指さえも動かなくなる。そこから滲んだ液体がシーツにつけ、まだらに濡れた跡を残する。
「ほしい…君の…欲しい…」
これほどの懇切なお願いは満足されないわけがない。粘りがいっぱいついた指が離れた後、空虚な感じは特にはっきりしてきて、木島は霧の立ち込める雲の上に投げられたようで、どこから来たか、どこへ行くのか分からなくて、確かな感じを渇望している。たとえ危険であっても、辱めであっても、痛みであってもいいが、早く来てほしい。
やがて期待したものが来た。木島は戦慄した。後穴は唐突に開かれ、密集した激しい痛みで息ができなくなり、柔らかな体に楔を差し込まれたように、ぎゅっと詰められ、ゆっくりと破れていった。
「城戸…城戸…痛い…痛い…」
ゆるやかな痙攣と攪乱は、次第に内裏の灼熱の痛みをやわらげ、欲棒が荒々しく撫でられ、二重の刺激が混沌とした意識を打ち砕きながらも、あっさり崩れ落ちず、千万の細かな裂け目を作り、血を滲ませている。
木島は眉間に皺を寄せ、それに耐えて、灼熱の熱が体を這いまわり、やがて下腹の下の欲望の沼に集まるのに身を任せていた。ぼんやりと湿って揺れる視界には、あの人の彫刻のような輪郭、顎の角のある線、抱擁に強い腕、いつも優しさの秘密を秘めた瞳だけが浮かんでくる。
木島は細い指を一本ぽつんと空気の中に搔き出して、細い脚を精一杯に絡ませて、目尻の情欲のあふれる赤みで、口の端の荒い息づかいで、体の破廉恥な絡ませで、また行った間際の無我夢中な叫びで、ある利己的な目的を達そうとした。
「行かないで…ああ…城戸…全てをあげるから……いかないで……うむ…行かないで……」
木島は哀切な叫びの中で、ほとんど無感覚に、動物のように絶頂した。
涙に濡れた目が、震える喘ぎの中でゆっくりと開き、現実にある空っぽの部屋が、針のように瞳を刺していました。木島は下唇を噛みしめ、その深い血痕に噛みついた。それほど現実的な肉体の痛みは、彼を真実の前に引き摺り、硬い地面に放り投げ、幻想をばらばらにした。
脚は開いたままだが、何も引き留められなかった。木島はほとんど残忍にもマッサージ棒を力いっぱい引き抜き、絶頂したあとの十分の敏感な体が抑えきれない痙攣で、残り少ない気力をことごとく使い果たしてしまった。
「行かないで…」
おこがましい叫び声が、まだ耳に渦巻いて、身の程知らずを思い出させているようだった。その孤独な体で城戸を引き留めたこともなければ、卑しいセックスで時間稼ぎをしたこともない。城戸はもう出発した。別れたかのような熱烈なキスのあと、しばらく去ってしまう。またそのうち帰ってくるといっていたが、木島はその不確実さに身を縮め、虚妄の夢を続けているようだった。
木島は長いあいだ体を丸めてベッドに横になっていた。夕暮れの寒気が骨を染めるまで、汚れた足がしびれるまで、あたりの冷たい静寂に無理やり慣れるまで、すべては二年以上前に戻っただけで、あの人と再会することはなかったと自分に言い聞かせるまで、木島はずっとベッドにいた。
少なくとも、あの頃と比べて、いまは熱い風呂にも入れたし、城戸さんの気前のよさにも感謝している。
お湯が肌を真つ赤にして流れ落ちると、木島は息を吸い込み、痛みをこらえながら下半身に手を伸ばし、汚れた執念を洗い流した。湯気が彼を包み、騒々しい水音が彼の頭を洗い、彼は自分の軟弱な欲望を握りしめ、急に自分の存在を嫌悪した。父の言った通りに、彼が信仰し、それによって生きている文学は何の役にも立たず、災いを招くだけで、彼自身はどうしょうもない阿呆なのだ。
どれくらい高温の水の中に立っていたのかわからなかったが、肌は触れるだけで痛くなるほど脆く、柔らかな綿のシャツを着るのも拷問のようだった。
彼はウォーキング・デッドのように、空洞と自己憐憫に蝕まれていたが、このマンションがこれほどがらんとするほうに感じるのは初めてだ。どこに立っていてもはっきりと一人ぼっちだ。
いくら無視しても、事実は客観的に存在している。例えば、城戸の母親は城戸が結婚して子供をもうけて幸せになることを望んでいる。また、城戸もそう思ったかもしれない。いつまでもこのままだとは言っていないから。例えば、おぞましい道徳的ルールからすれば、自分は自業自得で責められ、見捨てられるべきだ。これ以上幸福な瞬間が訪れなくても、息を呑んで、夏を待てない蟬のように、いつまでも暗い地の底に待つことしかできない。
しかし、もしそれが事実だとしたら、彼らの間にあったのは何だったのでしょうか。手放しがたい抱擁や、狂気のようなキス、二言三言の言葉を交わし合うこと、親密に任せる日々、手に負えないエロチックな小説と嘘交じりの流俗的な愛欲の断片…すべては何なんだか。可笑しい。
人は何度も騙され、また自己欺瞞をしてから超然になり賢くなる。木島はもう以前のように、いつ、またはなぜを堂々と城戸に問いただすことをしない。それも過去から勉強したものだ。
城戸が作っておいた料理は食卓に置いているが、もう湯気がたたなく、チラッと見ても食欲が立たない。木島はソファに座って喫煙していた。あたかもそうしなければ延命できないように。
その日の出来事はあまりにも突然だった。木島はふと思い出した。少年の頃、ずっと隠していた本が父に見つかって、殴られてドアの外に捨てられた時、母は親切に温かいスープを作って慰めてくれたのに、彼は食道に瓦がれきで詰まったように食欲が一切なし、すべての一時的な慰めを断った。食べることで悲しみを解消する人がたくさんいるが、それは悲しみがそれほど大きくなく、時間が経てば自然に解消してしまうからだけだ。
彼はアルコールを欲する。ワインでも、ビールでも、どうしてもアルコールが必要だった。幸いに、城戸はスピリッツを封印しただけで、ワインぐらいは飲める。その赤茶けた、ワインと呼ばれる液体は、喉を伝って胃の中に入り、薄ら冷たさが胃で微熱とぶつかり、凍りついていた血が、ゆっくりと目覚めて流れ始めた。木島は城戸を失うということがそんなに大変なことだったのかと、いよいよ怖くなってきた。生きていく意欲を少しも残さず失わせてしまうのでしょうか。今は、失われてしまったのか、それとも執行猶予か。
ふと、彼は調理台に何かを見つけた。きらきらとまぶしい、合鍵だ。城戸が持っていたはずなのに、そのまま放置されていた。宙に浮いた刃は、一瞬にして落下し、木島の無駄な期待を指し貫いた。
「ゲー…」
木島は急に胃が締めつけられ、酸っぱいような感覚が込み上げてきて、目の前がぐるぐると回転した。口を押さえてよろめきながらトイレに駆け込むと、便器のそばに転び、どうしょうもなく吐き気を起こした。食事もしてなかったため、木島は震えながら、からからした胃から、酸液を吐き出しているだけだ。逆流と痙攣の痛みは消えず、額にはびっしりと汗が浮かび、涙もこぼれる。
決して、何かを見たから、何かを思ったからではなく、空腹でお酒を飲むせいだと自分に言い聞かせた木島は冷たい壁にもたれ、弱々しく息をしていた。最悪、最悪だ、このまま死んでしまったら、うまい弔辞ももらえないだろう。しかしすっかり力が抜けていて、体がどんどんバラバラに解体されていくようで、どの部分も自分のものではなく、目の前にはあるかないかのような黒い影が立ち込めている。意識がなくなる前は、もし城戸が戻ってきて、自分の死体だけを見たらどうだろう、と自嘲的に考えていた。
しかし人は安易に死なない。生命は脆弱だが、脆弱な命は存在そのことに対して尋常ではない執着がある。人々は宿命のからかいから逃げられなく、いくら悲しい人でも、時間は冷笑して軽やかにその人に擦り違う。
鳴り続けるベルで目を覚ましたときの冷たい背中の感触と、足の指のしびれが、木島が生きていることを思い出させた。どうにか起き上がり、ふらふらと、どこかに置いてあった携帯電話を探したのだが、その番号には、たった一人しかかけられなかった。
まるで救助を求めるかのように通話ボタンを押し、聞き慣れた声が聞こえた瞬間には、溺れた人が瀕死の状態で引き上げられ、空気に触れたかのように、口を開けて大きく息をしていたが、意味のある音節は何も発しなかった。
「木島…木島…」
城戸の声は、遠いところから聞こえてきた。ひどくリアルではなく、混乱した耳鳴りに混じっていた。
「うん…何ですか?」
木島は声を安定させ、元気がないかもしれないが、少なくとも普通に聞こえるように努力している。電話の向こうの城戸には、木島はまるで息が切れているように聞こえた。
城戸は五時間以上もかけて急いで帰郷して、病気で機嫌の悪い母親を看病し、やっと実家に落ちつくと、真っ先に木島に電話をかけようと思った。彼はいつまでたっても不安だった。家を出る時の木島の撫然とした表情は、彼の脳裏に刻み込まれていた。彼の気持ちは、料理台にあるポコポコと沸騰しているお湯のように、なかなか落ちづかない。
しかし、何度も電話をかけて、ようやくつながったとき、木島のかすかな声が、まるで細い糸のように彼の心臓の血管を巻き付けてきて、彼は思わず携帯電話を握りしめた。
「どうしたのか。食事はまだか?俺が作ったものを机の上に置いたが、見た?」
「うん」
木島は、こらえきれずに感情を洩らしてしまうように、言葉を惜しむような小声で答えた。
城戸はますます不安になり、声をひそめて食事をすすめる。
「急いで実家に戻ってすまない」
「すまないって…何も悪いことをしていないのに」
木島は呆れていたが、その呆れとは、ある種の感情の波動であって、それよりも彼には先ほどのような頼りなさがなくなり、生きている実感ができた。
突然、会話が途切れた。携帯電話の中から、何か別の声が聞こえてきた。誰かが叫んで、誰かが応じるような、木島にとっては見慣れない日常的な物音だった。城戸の声が聞こえてきたのは、数秒後だった。
「荷物をまとめてくれと言われた」
「うん」
木島はわざと冷たくするわけではないが、何を言うべきかわからない。それは遠くにある、外の世界の、城戸の生活であり、彼が持ってもいない、贅沢な家庭の温かみに繫ぎ、また木島の存在しない場所である。それらの小さな音が代表する、巨大で完璧な世界が、ゆっくりと木島の微細な生活を微塵にして、風に吹き飛ばしている。
「そういえば、さっき気がついたが、鍵を落としちゃったんだ。探してくれないか。見つけたら玄関の引き出しに入れて」
「うん」
城戸がぶつぶつと念を押しているが、木島は自分の心の中に残っていた執念が、またどこかで、僥倖を持って、集まってくるような気がした。そのように無邪気で楽天的な自分を、つい軽蔑しておかしくなってしまった。
「そのうち帰る。ちゃんと食べて、休んで、ちゃんとかけ…」
そう、木島にはまだ創作がある。そうじゃないか。ぼんやりとした気分の中、木島は乾いて痛む唇を無意識のうちに舐め、携帯電話から切れた音が聞こえ、さよならときちんと言えたかどうかもわからなかったが、機械音の中で、彼はまだ書くことができ、ベンで自分を救うことができるということを思い出した。
「蒼介は女の下の密林に指を突っ込んで、わざとのんびりと攻めてきて、彼女が我慢できずにせがむのを待っていた……沙織は丸くなって、喘ぎながら、『蒼介くん…もうだめ…あ…あ…やめて…もう行く…』と、荒い艶っぽい声を出した。沙織の豊かな体は清らかな輝きを放ち、閉じた目は抑えきれない興奮を訴えているようで、蒼介はすぐに背後から彼女を貫いた」
ガサガサ、ガサガサ、ペン先が原稿用紙を猛スピードでこすり、指の関節が机の上で軽く叩き、どこからともなく涙が落ちてきて字がぼやけてしまいながらも、作家は笑っていた。彼は自分の感情生活を嘲笑するかのように、血と魂の中から、怨みに満ちた、身勝手な、淫らな字句が、次々に出て来るのを眺めていた。
ほら木島理生よ、この無節操な創作意欲は、これくらいしか書けないじゃないか。


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