親の愛をもらえなかった子たち
自己紹介、と名の付く
自分をひたすらアピる記事を
今日も書きたいと思う
今日は、保育士として過ごした4年間を
大雑把に語りたいと思う
そもそも、
なんで私が保育士になったかと言うと
なんでもいいから
高校卒業後は進学したかったから
ようするに、高校卒業後は
働きたくなかった、から笑
あの時代、特に私が住んでた地域では
高校卒業したら働く、って人が多かった
だけど、私はそれが嫌だった
高校まで部活部活で、遊ぶ暇もなかったし
大学のキャンパスライフなるものに
憧れもあったし
だから、何が何でも進学したかった
でも、我が家は裕福ではなかった
でも、働きたくなかった笑
そこで、父が選んできた学校が
保育の専門学校で、しかも
寮に入らなければならない
その寮に入れば、
学費や寮のお金がいらなくなり
その代わり、2年間の専門学校卒業後は
必ず、最低3年は働く、という条件付きだった
私、もうそれでいいや、と思った
高校卒業後、すぐに働かなくていいのなら
正直、子供苦手だし、
保育士とかちょっと無理だけど
もういいや、と思った笑
これが、保育士になったキッカケ
純粋に保育士を目指してる人には
大変、申し訳ないと思うけど
なりたくないのに、なったのは、この私です
それで、入学試験落ちてる子もいるわけだから
それこそ、ホントに申し訳ない汗
そんなこんなで、
専門学校生活、寮生活については
この前、記事にしたので、その後の話
卒業後、私は養護施設勤務になった
なんでかというと
保育園、幼稚園のような、
小さい子だけを相手にするとこが
やっぱり私には性に合わず・・・
普通に生活するようなスタイルの仕事がいいな
と、思い、養護施設を希望した
ここで私は4年間働いた
私が働いた養護施設は、“小舎制”と言って
子供全員をすべての保育士で看るのではなく
縦割りで、1つの家に7~9人までの
小学生から中学生までの子供を
いわば、兄弟、姉妹、として住ませて
そこに、お母さんの役割として
担当保育士1人と、副担当保育士1人の
2人の保育士をつけるやり方だった
呼び方も「○○先生」ではなく
「○○のお母さん」だった
だから、普通に
学校の入学式、卒業式、授業参観、も
母親として行っていた
私は、男子の担当になり、
小1から中3までの9人を看ることになった
ここで説明すると
養護施設とは、
訳あって親と住めない子や
親がどっちもいない子や、もしくは片親か
親に、生活能力、育児能力がない子たち
が入ってくる施設
そういう経緯もあり
私が勤務していた養護施設はその子たちに
少しでも家庭というモノを味合わせたい
という想いから
“小舎制”というやり方をしていた
なので、保育士は住み込みになり
それぞれの家の中にある“保母室”が
担当保育士の、ある意味、家になる
私も、新人だった1年目を除いて
2年目からの3年間は、
保母室、が私の家だった
私が休みだろうがなんだろうが
子供たちは普通にそこで生活してるわけで
なんだか、いつも1人になれない
そんな感じの生活を3年間送った
今から思えば、よくやったな、と思う
子供が苦手だった、この私が・・・
子供は、
3歳までに親の愛情を十分に受けないと
知能が遅れる、と言われている
ホントかどうかは、定かではないけど
でも、やっぱり施設にいる子たちは
いろいろと問題を抱えている子が多かった
もちろん、勉強もできない子も多かったし
何より、生活面で当たり前にできない子が多い
中学生なのに、毎日オネショをする子や
万引きを繰り返す小学1年の子や
お友達に暴力を振るう子や
とにかく、いろいろだった
オネショする中学生は、
中学生にもなればやっぱり恥ずかしいからか
オネショしたお布団を押し入れに隠す
私はそれに気づかずに数日過ごす
すると、ある日、異臭が漂ってきて
アチコチ探してみると
その子の部屋の押し入れから臭ってきて
そこでようやく気付いたり
万引きを繰り返す子供は
何回言っても辞められず
そのたびに、
万引きをしたお店に謝りに行ったり
暴力を振るう子は
ほとんどが親から虐待された子で
暴力を振るう事が、
愛情だと思い込んでいるから
注意する事も難しく
当時、20歳過ぎの、
まだ親にもなってない私が
こういう子たちの面倒を看るのは
予想以上に難しく、
私、また安易に大変な所を選んだな、
と後悔した
そんな中でも、とにかく必死に愛情かけて
私なりに、私なりのやり方で愛情かけて
それなりに頑張っていた
不思議な事に、お世話をしていると
やっぱり子供たちの事はかわいく思えてくる
正直、先輩保育士も怖いし、女の世界だし
大変な事だらけだけど
子供たちがかわいいから、
まだ頑張れたところもあった
ああいう所で勤務していると
子供を育てられない親や
虐待する親の気持ちは
まったく理解できないし
結婚して、我が子を育てた今ならもっと思う
育てられないならなんで産んだん?
って
養護施設にいる子たちは、
ほとんどが軽度知的障害で
実は、その親も軽度知的障害が多い
その逆で、精神薄弱者施設は
普通に暮らせないレベルの
知能の遅れが見られる子が入る施設
つまり、重度知的障害の子で、
その子たちの親は、なぜか
普通の人が多かった
普通どころか、ものすごいお金持ちとかもいる
私が保育の学校時代に実習に行った
精神薄弱者施設もそんな感じだった
なんでそうなるのか
と、考えた時、
当時、20歳を超えたまだ若造の私が思った事
人生、
すべて完璧には揃わないようになってるんだな
って事だった
精神薄弱者施設に実習に行った時、
そこの保育士さんから聞いた話
一度も、親が面会に来た事がない
その子の親は、お金持ちで
仕事も忙しいのももちろんあるかもだけど
きっと、知的障害がある我が子を
受け入れられないか
それか、言いたくないけど愛せない、か
わからないけど、どんな理由であれ
完全に見捨ててるのと同じだった
この親は、富や名誉は手に入れてる
だから、子供も優秀な子であれば
人生、完璧だったはずなのだ
でも、それは、手に入らなかったのだ
言ってみれば、
一番大事にしなくてはいけないモノ
一番、愛を感じれるモノ、が
手に入らなかったのだ
というか、
手に入れようとしなかった
すべては、神様の成す事で
それもこれも
そこにどんな意味づけをするか
その子を通して、
何を悟らなければならないのか
なのだと思うけど
きっと、その子の親は、
自分たちを守る事で必死で
子供を通しての人生が
悟れなかったのだと思う
人生って、どこかで折り合いがつくように
きっと、成ってるんだ、と思えて仕方なかった
これって、難しい問題だし
デリケートな問題だし
もし、
障害を抱えたお子様をお持ちの親が見たら
どう感じられるのかな、と思うけど
若かった時の私の、一つの見解として
捉えてもらえればありがたい
以前、インスタにも書いたけど
【ゲド戦記】というアニメ映画の中で
こういうセリフがある
我が子が病気になったら
ちゃんと世話してる
あんな人だけど、子供を捨てる親より
よっぽどマシだよ
親に捨てられたテルーの面倒を看ているテナー
テナーは、趣味で薬を作っていて
その薬を近所のうわさ好きの女性が
子供が病気になったからと言いもらいにくる
その時に言ったセリフだ
なんで、こんなセリフになったかと言うと
薬をもらいに来た女性は
テナーの事を良く思ってなく
ある事ない事、うわさを巻き散らかしてる人で
テナーからすれば、
あまり好ましくない女性だったからだ
それでも、そんなろくでもない人でも
子供だけはちゃんと看て
病気になれば、治そうと懸命になる
それが、普通の親、なのだ
どんな人だろうが、
子供を捨てる親に比べたら
比べもんにならないくらい“良い親”なのだ
親になって思う
子育てに自信がない、とか
嘆いている親が、たくさんいるけど
私が養護施設で関わった子供たちからしたら
それこそ、比べもんにならないくらい
どの子供たちも幸せで
そして、どの親もみんな、良い親、だ
それは
ちゃんと一緒に住んでるから、だ
もうそれだけで、十分育児をしているから、だ
それどころか、
子供を怒ってしまった、と反省して
泣いては、また立ち直って
慣れない育児に奮闘して、一緒に成長して
そして、可愛い、と思ってる
愛情がある
それだけで、十分、立派な親だから、だ
あの時、一緒に住んでいた子供たちが
どんな大人になってるのか
まったくわからないけど
せめて、どんな形でもいいから
愛を感じながら、生きててくれたらいいなぁ
と、心から思う
子供の頃に感じれなかった愛を
少しでも感じて生きていて欲しい
と、心から願う
これが、私の養護施設時代のお話
ほとんど自己紹介になってなく
なんだか重たい内容になってしまったけど
養護施設の事を
少しでも知ってもらえたら嬉しいです
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?