優しさを思い出すために学び続けること
『お父さん短足、可哀想www』
というコメントが、
私の大好きな人のブログに書かれていたらしく
それについての記事が、だいぶ前だけどあって
私は、それを読んだとき腹が立った
というか、悲しかった
なぜなら、その『短足』とつけたコメントのブログは
その方の母親が亡くなったときのお葬式に
父親が奥様の遺影を持っている後ろ姿を
遠くから撮った写真を載せていたらしく
その写真を見ての“短足”コメントだったからだ
人それぞれ、“普通”が違うくて
それでも敢えて言うのなら
遺影を持ってる写真を見て
つけるコメントじゃないだろ
と、思ってしまう
その方は、それについて
不思議なことに腹は立たなくて
ただただ、可哀想な人なんだな、と思ったらしい
“心が寂しい人なんだろう
報われない日々を送ってるいるのだろう
だから、何かに、誰かに、匿名という方法で
発散するかのようにあたるのでしょう”
と、付け足して書いてあった
ありきたりだけど、当たり前だけど
たとえ、報われない日々も送ってないし
心も寂しくない、と反論したところで
周りの人はそうは思わないし
もし、本当に心が寂しかったとしても
そんなコメントを書いていい、とはならない
けれど、いつも
こんなコメントや、こんな記事を目にするたび
批判やアンチコメントを書く人に
きっと“優しさ”が過去に一つもなかったか
と考えれば、そんなこと絶対ないよね
と、個人的には思ったりする
じゃ、なぜそんなコメントを残してしまうのか
それはたぶん、“優しさ”“思いやり”を
忘れてしまっているんじゃないかな、と思う
以前、バスに乗ったとき1番前で
吊り革を持って立っていたら
その前に座ってる年配の方が
両替をしたそうにコインを握りしめて
ソワソワしていた
降りるときだと、後ろの人に待たせたら悪いし
焦ると余計にモタモタするし
なんとなく降りる前に
両替したいんだろうな、と思ったから
『しましょうか?』
と声をかけたら
『すみません💧』
と言ってコインを渡してくれたので
その人に変わって両替をしたことがあった
その人は、助かったといった表情で
何度もお礼を言ってくれた
思うに、
そういう咄嗟に出る行動や言葉って
“善意”じゃなくて、もう“本能”で動いてる
そして、そういう本能はきっと
すべての人が持ち合わせていると思う
たまに見かける、人とは思えないコメントや
『え?なんでそうなる?』というような投稿で
“この人、人間じゃないよ、悪魔だよ”
と、思うときもこれまで何度かあったけど
やっぱり、その人たちもちゃんとした人間で
悪魔、ではない
だとすると、忘れてるんだと思う
人を思いやる気持ちや、優しさを
だから、取り戻さないといけないのだと思う
【本来の人間らしさ】というモノを
それって、人との“ちゃんとした”関わりでも
もちろん取り戻せていけると思うけど
大事なのは、“学ぶ”ことだと思っている
それは、なんでもいい
映画でも、音楽でも、本でも
必ずどこかで、どこかの1ページで
たったひとことで、たったワンシーンで
“もともとの自分”を思い出して
呼び起こせる瞬間が、あるはずなのだ
たった一回の映画、たった一冊の本だけでは
思い出せるほどのモノには巡り会えないかもしれない
だから、学び続けることが大事なのだと思う
学び続けるから、自分を変えるほどの
“たった一冊”や“たったひとこと”に巡り会える
私は、よくある
映画を観て、本を読んで
泣きたくもないのに勝手に泣いてしまう瞬間が
それで、すごく浄化されていくような感じになる
私の中の未熟な部分や、醜い部分なんかを
洗い流してくれてるような気分になる
女が出産後、キレイになると言われるのは
赤ちゃんと一緒に体の中のモノが出るからだ、と
聞いたことがある
だから、涙も、汗も
体から自然に出るモノは出したほうがいい
誰にも遠慮なんかせず、思う存分出したらいい
きっと、人の言葉を、行動を
斜めからしか見れない人は
涙も流せていないのかもしれない
流せていないから“人間らしく”生きれなくて
苦しいのかもしれない
取り戻してほしいと思う
思い出してほしいと思う
本来の人間らしさ、を
あなたらしさ、を
そのために、学んでほしい
本を読む、映画を観る
自分よりも波動が上の人と対話する
自分を上げる
そうすれば、きっと訪れる瞬間がある
“あれ?なんで泣いてるんだろ”
という瞬間が
そして、たくさん泣けたら
自分の中で眠っていた“人に対する優しさ”を
取り戻せるときなのだと、思う