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11/12(日)「生きててえらい」から何だ【50】

・朝8時に起きて大きな器で3日目の豚汁を飲みながら音楽を聴いた、気分が良かった

・↑の好スタートからは予想できないが、昼ごはんにナポリタンを食べたあと夕方までベッドで寝てしまった

・なぜかって?あの…寒くて……

・猫みたいな理由の昼寝から17時半くらいにのこのこ起き出して、オーブンレンジで作った焼き芋と粉末の即席スープを食べた。あたたかい炭水化物と汁は元気が出る

・その後は買い物から帰ってきた家族を手伝ってビーフシチューを煮込んで食べるなどした、昼間に長時間寝てしまうと時間を無駄にしてしまった残念さとそれを招いた自分への嫌悪感(というほどではない)とで更に元気がなくなることが多いが、昨日はよく持ち直した

・えらい

・自分へのこういうちょっとした前向きな声かけをいつからか意識してするようにしている

・「今日も生きててえらい」とか、私はべつにそう思ったことはないけれど、世間的にもよくされていることなのではないだろうか

・前提として、生活は大変だし生きてるのは苦しい、ただどうせ生きているなら少しでも幸せにいたいものだ。自己や他者の承認はもはや私たちの幸せに欠かせないから、世の中に出回るポジティブな声かけは多いほうがいいに決まっているのである

・それがはっきり分かったとき、私はこの「えらい」とか「すごい」とかの声かけを自分や他人にするように意識し始めたんだと思う


・今回の話は、その意識がどうも身体に馴染まなくなってきた気がすることについてである

・ここ数ヶ月で、自分や他人へのポジティブな声かけをしたあと、なんだか少し違和感を感じるようになった。なんというか虚しさに似たものがサッと胸をよぎる感じだ

・べつにポジティブな声かけのポジティブな部分はちゃんと受け取れるのだが、受け取ると同時にその受け取る行為の是非を疑うような気持ちが微かに起こるのである

・思うに私は、自分を肯定するのに理由などいるのかという疑問を無視できなくなったんだと思う。えらくなくても、すごくなくても私は私でいてよいはずだ

・そうなのである。そもそも「えらい」とか「すごい」という声かけがないと自分を肯定できないというのはいちばん幸せから遠い考え方な気がする。私が誰であろうと、誰にも、自分にさえも認められていなかろうと幸せであっていいはずなのである

・とはいえ当然にそんなに正しくいられるときばかりではない私たちが、小さな肯定を繰り返して幸せになろうとすることも間違いではない

・でも、この違和感は無視してはいけないと思ったのでここに書いておいた


・午後いっぱい昼寝したばっかりに予定をひとつキャンセルしてしまい、こんなことを考えて夜を過ごしていたので昨日より少し元気ではなくなった

・日付をまわって4時くらいまで、考えごとの余韻をかき消すようにショート動画を流し見してしまった

・次々に流れていく数十秒の動画が、苦しさとか幸せとか肯定とか否定とかそういうものを遥かに超えた、もしくはかけ離れて低い次元の場所に、私を留め置いてくれた。それが救いになった夜だった

・今日は終わりです、旅先なのによく書いた

・明日も書けば三日坊主達成である。今後もよろしくお願いします

・では

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