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物を買う時に考えること

最近、暮らしを更にシンプルにしようと思うようになった出来事が起こり、シンプル化に拍車が少し掛かっている。
とりわけ、物質的なシンプルさと結びついているのは、言わずもがな、服や雑貨などの「モノ」。

出来る限り物は増やしたくないが、あらゆるモノを暮らしへ招き入れる際に、自分が日頃考えていることをツラツラ書いてみようと思う。

コーヒーカップ、無地の手帳、文庫本は三種の神器。

みんなにとって、買うことが義務のようになっている最近。
娯楽としてショッピングモールを回遊する時、「良いな」と思う物は沢山目につくが、それを口にすれば最後、「買えば?」という圧力か、もしくは横にいる人間の実際の言葉までのしかかって来る。
例えばモーツァルトのヴァイオリン協奏曲をしばらく聞いていたいのに、演奏開始15秒で「うちの演奏はいかがですか」と訊かれるようなもの。
これでは必要なものか、自分には必要ないものか、まるで判断ができない。

「良いな」が「買おう」に変わるまで、自分の中にはフィルターがいくつかあることに、ある時気づいた。
最近、穴の空いた夏服2枚を買い替えた時も、材質や着心地、着用してどのように生活できるかを吟味して、2回ほど実物を見に行ったものの、その際は結局買わず仕舞いだった。
これが一つ目のフィルターとなり、要は「生活へのフィット感」を事細かに調べている。
だから、単体で見てどれだけ好みでも、それが調和を乱すようなら手を出さない。

次の段階では、他のもので代用できないかを考える。
正直、1つ目のフィルターがかなり厳しいので、ここまで来れば、審議中の物とは仲良く面談している心構えになる。
物は、1つで3役くらいこなせる性質が好きだ。
例えばスツールは椅子として使える一方、背もたれが無いお陰で、机にも、物置きにも使える。
ガラス製の花瓶は、花を生けていない間は”自分を生ける”のに役立つ。
つまり花瓶へ水を注いで、部屋の中でそれを飲んでいる。
今までどこに眠っていたのか、その肌色のボロ切れは、テーブルクロスにもなれば、土の上へ敷けばレジャーシートにもなる。
では服装で言えば、代用の精神を活用し、これ一枚で山へもオフィスへも行けるもので揃えたく思うのだ。

次の段階はかなり単純で、生活にフィットし、代用が見当たらなくても、さて本当に必要かを問う。
それが無い状態で生活してきたものだから、当然に浮かんでくる。
煎じ詰めれば、それが無いことで社会的な恥晒しになるのなら、めでたく暮らしへの仲間入りを果たす。
春から秋は、体感温度に従えば、服を着ていなくても生きていけそうだが、下着姿で電車へ乗り、職場へ向かうことは出来ないだろう。


最近のショッピングモールは戦場で、販促の砲弾や、ポイントという手りゅう弾がよく飛んでくる。
精神を高め、気を付けて買い物をし、そして気を付けて帰ってくるようにしている。

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