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生活の日記 2月9日〜16日


2月9日(日曜日) 音楽との付き合い方

中古品は温もりがある。人と歩んできた温度感を自分は感じ取っているんだと思う。母親から、CDプレーヤーを譲ってもらった。ラジオも聴ける。

スマホに入れてあるアルバムを、あえてCD版に買い戻すのはどうだろうか?正直、というより性格的に、聴くものは固定化してしまう節があるし、それでも色褪せない楽しみを見出せる。CDを取り入れることで物質的には増えても微量で済む。

試してみて生活との調和を探っていく。

2月10日(月曜日) 「ない」から「ある」へ

「ない」から「ある」へ引き戻す。今日も1日生きていけたのだから、本来は十分に「ある」状態。

時折浮かぶ不安や心配は「ない」ことに関して知らせにやってくる。強い意志で「既にある」と繰り返し言い返すことで、自分が歩みたい道へ戻ってくる。

京都・二条の喫茶店にて。

2月11日(火曜日) 思考のミニマリズム

アナログ化は物質が増える一方で、思考のミニマル化に繋がる。ジャンク・インフォメーションを遠ざけるのにも役立つ。厳密にはCDプレーヤーもデジタル製品にはなるが、CDフォルダをめくり、円盤を手で取り出し、音楽が流れ始めるのを待つように、動作がある程度までアナログ化される。

アナログな動作の中で起こる五感の駆使が、確かな満足感を呼ぶ。満ち足りているから、もっと刺激を求めようなんて思わなくなる。この状態の頭と心は静かな状態を保っており、ミニマリストの方々の部屋のように整頓されている。

CDタイムやラジオタイムを取り入れてからは、YouTubeで動画を見ようと思わなくなった。視聴するとしても、このクリエイターの方のこの動画、と言うように限定的で、主体的に観るようになった。

結局、画面の中に求めていたのは刺激だったのだ。

2月12日(水曜日) 人の命がゴシップの材料になる

住んでいる場所からは果てしなく遠い某県の道路が陥没し“やいやい”言われていることを今日知った。前々から話題だったらしく、私が「知らない」と言うと、信じられないという目付きで懇々と説明された。丁寧に説明されても、結論は「大変だね」というありきたりの言葉で締め括られた。

当事者や関係者の方々の焦り、悲しさは伝わったものの、一方で、そういったことを報じて何になるのか?また経済的な支援も出来ず、助けにも行けないな私たちが「大変だね」と言ったところで何になるのか?

人の命の危機が見え隠れている内容さえも、ゴシップの材料になってしまったのか。

2月13日(木曜日) 心の波に従って暮らす

安全な日でもストレス反応は何かしら起こっている。蝋燭の炎のように絶えずゆらめく心の波。風によって向きを変えられやすく、消されて暖かさが無くなってしまう恐れもあるが、仕方のないことだ。一日中上昇気流で過ごすより、心の波に従って暮らしていきたい。

宿根ガーベラ、部屋へ避難させる。寒さに苦しまなくて良いと思ったのか、部屋に引き入れた途端新芽を出し始める。これで経過観察をしてみたい。しかし、部屋に入るだけの光量で花は咲くのだろうか?

2月14日(金曜日) 贅沢と刺激

人が贅沢のために飢える、と言うのは本当かも知れない(H.Dソロー著 ウォールデン 森の生活に書かれている文)。幸福感や清々しさなどの「良さ」にハマると、もうそれが無い生活は考えられなくなる。もちろん何かに寄りかかっていないと、人は生きていけない。ストレスが限りなく排除された暮らしでも、ストレスが発生しない状態を拠り所とすることになる。

何かハジけたことをしないまま、そしてしなくても良いと思ったまま四半世紀を生きてしまった。生まれてこの方、大半の人が行くような遊園地、水族館、ビリヤード、ゲームセンターへ欲求を示したことは全くなく、何かの折に足を運んだとしてもその日限りでお終いだった。飲み屋、スキーへは未だに一度も行ったことが無い。

でもそれで良い。日常生活も十分刺激的だから。

2月15日(土曜日) 現在を生きる

「現在」と心身が完全にリンクすることが稀に起こるようになった。これは瞑想的で、永遠に現在だけが流れている経験だ。

でも大抵は、過去の思い出や未来の予想に頭が占領されている。

2月16日(日曜日) あまり働かない方針で

あまり働かない方向性も良い、と思った。雇われているのか個人で何かしているのか将来のことはまだ分からないが、いずれにせよ詰め込んで働いている自分の姿は想像できない。例えそれが好きなことであっても。

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