見出し画像

おろかものとおろかもの 7

小学校4年生の佐々木恵は、塾のドリルに夢中だった。
小学校1年生の佐々木流は惠に学校の宿題をサボっていることを怒られて、泣いていた。

自転車を必死に漕いで、自宅にたどりついた海斗はいつもの二人を見つけて、ほっとした。しっかりものの恵と、泣き虫でいたずらっ子の流。
テレビは付けていなかった。宿題をする時間だからだ。二人には何が起きようとしているのか、知る由もなかった。


「ずいぶんはやかったのね、海斗にい」

計算ドリルを進めていた手を止めて、顔を上げて惠は海斗に言った。流はまだぐずっていた。息を切らして、真っ青な顔をした5歳上の長兄の様子を見て、不思議そうに惠が尋ねる。


おにいちゃんの大親友で、いつも自宅に電話をしてくる、優しい声をした悠ちゃんの家に遊びに行ったら、たいてい自分たちがお風呂に入って上がるまで帰ってこない。
呼吸を整えて、なるべく平静を取り戻して次の声を発しようとしている海斗の耳に、遠くから迫りくるような轟音が響いてきた。引っ越してきたばかりの築15年の分譲マンションが大きく縦揺れを繰り返す。
とっさに二人を抱きしめ、ダイニングテーブルの下に潜り込んだ。
轟音と揺れはいつまでも収まらない。惠は悲鳴を上げていた。流はさらに激しく泣いた。


「おにいちゃん、じしんかなあ」
轟音と揺れが少し収まり、ぐずぐずと言いながら流は海斗に尋ねた。
海斗が惠と流に自分が知りえた僅かなことを教えようとしたときに、辺りの変化に気が付いた。空が真っ黄色になっている。
ベランダに出て窓を開けると、おそらく新宿方面、霞の向こうにいつも都庁が見える方角に、高層ビルと同じくらいの高さの黄色の柱が立っていた。火柱、なのだろうか。
歴史の授業の時に見た、ヒロシマの原爆とは少し違う気がした。放射能の心配はなさそうだ。

海斗のカバンから音が鳴っていることに惠が気が付いた。iPadを取り出す。父親の謙介からの、LINEの着信だった。
「海斗、無事か?—よかった。惠と流も一緒にいる?」
「ぱぱあ!」小学校に上がる前の流は、父親の声を聴いてまた泣き出した。気が付けば惠も瞳に涙をため込んでいる。
「いい?海斗、よく聞いて。都内の数か所にミサイルが落ちた。これは本当のことだ。」
惠と流はこの時はじめて状況がわかった。じしんじゃない。かじでもない。
「とうさん、どこにいるの?どこに行けばいい?僕はどうしたらいい?」海斗は矢継ぎ早に尋ねた。
「とうさんはこれからミサイルが落ちた場所や人が集まる場所に行って、色々とやらなければいけない。あ、たぶんかあさんもね。」
父親と母親は同じ警察官だが、管轄とする地区が違う。
「かあさんとは連絡がまだ取れない。墜落した場所はかあさんがいる場所の方が近いんだけど—」
海斗は胸がぎゅっと締め付けられる感じがした。惠の眼から一粒の涙が零れ落ちた。
「かあさんは大丈夫だよ。絶対に。とうさんが保証する。いいかい、海斗、今からいうことをよく聞いて。直にしたくをして、新潟にいる俺の兄貴のところまで行くんだ。」
父親は預金通帳のありか、印鑑、各種保険の書類やクレジットカードの暗証番号など様々な大事なことを海斗に教えて、3人で新潟にいる叔父のもとへ行くように指示を出した。
「上野から新幹線で行くのが一番だろうけど、多分もう無理だと思う。こっち方面にもミサイルが落ちている。海斗、なるべく西に向かって。品川から新幹線…無理なら在来線でいいから。駅は機能しているだろうか?」
海斗は2年前の中学2年の時に、一人で新潟の叔父のところに遊びにいったことがあったから、父親の言わんとしていることは何となく理解出来た。

「とうさん、かあさんもしばらくここでお仕事しなくちゃならない、だから海斗、惠と流と一緒に逃げて欲しいんだ。ああ、海斗、惠、流、本当に—」

ここでLINEは切れてしまった。通信不可の表示が画面に出る。何度掛けなおしても父親からの返事はない。
やっと聴けた父親の声。そして繋がらなくなった、聴けなくなった父親のK声。海斗の心に芽生えた安堵と希望はあっさりとかき消された。
いつもはしっかり者の妹が大粒の涙を零している。泣き虫の弟はいつにもまして泣き虫になっている。駄目だ、自分がしっかりしなくてはいけない。
惠と流を抱きしめた。海斗の眼に光が戻った。

いいなと思ったら応援しよう!

koniise
現代版 打海文三『応化クロニクル』を書こうとふと思いたち、書きだしました。支援・応援は私の励みとなります。気が向いたら、気の迷いに、よろしくお願いします。