戦前静岡茶広報史の一場面(3)
はじめに
この連載は、『静岡県茶業史』で見つけた、「牧野原物語」が放送されたという記事の周辺を探るものである。
(1)では、概要を紹介したあと、「マイクの旅」「瀧恭三」の二つは後回しにして、「東海道演芸道中」という番組について判明したことを書いた。
続く(2)では、「牧野原物語」という冊子の閲覧がかなったために、その報告をした。
既に道が幾筋にも分かれてしまったので、ここで改めて整理すると、「牧野原物語」そのものを明らかにするために、やはりラジオの番組についてもう少し詳しく知る必要がある、と同時に、「作者」である瀧恭三、小冊子の発行元である大井川保勝會についても情報を追加したい。
それらの整理の後、あらためて、戦前の茶業界のメディア展開について整理できるかも知れない。
(2)を公開した22年9月から数ヶ月の間に、NDLデジタルの使い勝手が格段に進化し、オンラインで調べられる情報が増え、上記の課題についても大分概要が明らかになってきた。そのことによって、更に調べるべき事柄が増えているのも事実だが、止めておくのも何なので、分かったところから小分けして公表していこうと思っている。
今回は、「東海道演芸道中」と、戦前に存在した「マイクの旅」の情報整理をしたいのだが、先ずその前に……。
1949年「マイクの旅」創始
先に、(1)でも触れた、戦後の「マイクの旅」についても紹介しておく。NHKアーカイブスには
「中の人」らしいさりげない紹介に留まっているが、この番組は戦後放送教育史上非常に重要、というか、実際人気のあったものらしい。そのまえに、「小学校高学年の社会科の番組」と言う言い方で、現代の多くの人が、理解できるかどうか。
私世代の人は、教室で佐野浅夫の「お話でてこい」を聞いた記憶があるだろう。54年から続いている長寿番組なので、或いは今でも校内で放送している所もあるのかも知れない。このように、NHKの放送番組、特に第二放送の番組は、独習講座用ではなく、学校で実際に使用する聴覚教材として企画されていた。
このことは、日本放送教育協会発行『放送教育』誌に詳しい。国会図書館で公開(送信資料)されているなかで二番目に古い第5号(49年7月)に掲載された日本放送協会企画部敎育課「学校放送座談会」では、戦後教育メディアとしての意義や活用方法が熱く語られている。その中で、二学期から放送予定の「マイクの旅」について触れた部分があるので引用しておこう。
この番組が非常に好評だったことは、一々取り上げるまでもなく、『放送教育』誌の中でも繰り返し示唆されている。
このような企画が49年に実現した背景については、『放送夜話 : 座談会による放送史』(日本放送協会,1968)で触れられている。占領軍が放送や教育に口出ししていた時代の話である。
『放送教育』誌創刊号は未見であるが、時代背景も見えてくるように思う。
その91号(56年10月)には、「学生論文『マイクの旅』の番組分析」を掲載している。これは55年一学期に放送された番組の内容を詳細に分析するもので、教科科目との整合性や教育効果にも及ぶ読み応えのあるものになっており、放送内容を知る手がかりとしても貴重である。
これらの証言の中には、戦後に於ける「マイクの旅」の「創始」のことはあっても、戦前に同じ名称の番組があった事について触れるものは、今のところ探し得ていない。ただ、上記『放送夜話』のなかで「東海道演芸道中」については興味深い証言がある。
当時の中継に要する機材についての話の中での断片的証言であるが、戦前の地方中継の様子が伝わってくる。
さて、思いがけず長くなってしまった。戦後始まった「マイクの旅」は、「マイクさん」と担当アナウンサーとの掛け合いも人気で、非常な成功を収めたらしい。今、この番組を記憶している人は私より年長だろうと想像する。証言を聞いてみたくなってきた。
なお、国会図書館内限定資料なので内容未見であるが、『マイクの旅』と言う雑誌、61年から63年分6冊が収蔵されている。これらについての報告は後日を期したい。
では、戦後の証言がなかなか見つからない、戦前の「マイクの旅」とは何だったのか。これも、NDLデジタルで、断片的ながら証言が見つかっているので、すこし整理してみよう。
戦前にもあった「マイクの旅」
まず、この証言から。
刊行年がなければ戦後の番組への言及のようにも読めるが、37年。しかも、明らかに教育放送ではなく娯楽番組として、少なくとも単発では無いかたちで存在したらしい。内容も『放送夜話』で語られた「東海道演芸道中」に通じるものがある。
もう一つ、三味線文化譜樂會の『三味線楽』5(3)(1936年3月)所収「昭和十年マイク妓情」(藤木紫紅)は、1935年中にJOAKで放送された「芸者連の統計」を載せていて興味深い。項目は、「吉例名物踊・長唄・清元・常磐津・河東節・新内・歌沢・小唄・歌謡曲・地方民謡小唄・其の他」の11に分類されている。芸妓の宣伝が難しい社会情勢の中で、演芸場出演よりレコード会社と専属契約をした方が良いと言う風潮もあったらしい。そのうち「地方民謡小唄」の項目の解説、
このリストには静岡がないが、「東海道演芸道中」の翌年にも同様の地方を巡る演芸放送があり、少なくともその一部は「マイクの旅」と呼ばれていた可能性がありそうだ。
話を「東海道演芸道中」に戻すと、帝国大学新聞社 編『帝国大学年鑑』昭和10年度版、「文化(ラヂオの傾向)」には、1934年のラジオを巡る状況を説明したあと、
とあり、続く「ラヂオ日誌」にも、10月1日の条に「東海道五十三次演芸道中開始」という記述がある。
こうした地方演芸を取り上げる番組は、放送局の経済事情とも関係していたらしく、維新社『維新』2(3)(1935年3月)所収の座談会「放送局批判」には、
『維新』という雑誌、その関係者にも興味が尽きないが、今は触れずにおこう。
さて、前記事の「放送協会の全国統一」「聴取者の獲得」というのは何なのか、またしても興味が広がっていくが、この件については日本ラジオ博物館のwebサイトに適切な解説「放送受信章の変遷(戦前編) 1925-45」があるので、これを参照していただくことでとりあえず済ませておく。
戦前は戦前で、やはり、ラジオの新時代があり、演芸番組と地方との様々な絡みがあった。そう言う中で、「牧野原物語」が作られ、放送された、という、外堀というか、おぼろげな背景は見え始めたかも知れない。
とはいえ、実は、戦前の「マイクの旅」も、教材として使われていたフシがある。松田友吉『国民学校初学年教室の経営』(啓文社 1941)には、
として、40年7月前半の学校放送番組表を提示しているが、そのうち、八日月曜に、「尋五・各局・マイクの旅「東北めぐり」」という記述がある。「尋五」は、対象学年が尋常小学校5年という意味であろう。このほか、未見ながら国会図書館限定資料のなかにも日本放送協會 編『子供のテキスト : ラヂオ』等に、「マイクの旅」への言及が見えるので、演芸番組と教育番組との関係は未だ判然としない。
これらについては改めて考察の機会を俟つとして、次は、「牧野原物語」の作者瀧恭三、及び、刊行元「大井川保勝会」について、判明している事についての記事を準備中。