広島県立大学とは何だったのか~1990年 庄原の青春~(1)
1990年4月僕は広島県立大学経営学部に現役合格し進学を決めた。
その大学は1989年に出来た新設大学で日本一の倍率(60倍越え)だった。
(偏差値は50ぐらいだったか、中の下ぐらい)
私がそんなに優秀ではなかったのでヒロダイこと(国立)広島大学というわけにはいかなかったが腐っても公立大学である。学費が安くて親孝行だ。都立大学とか横浜市立大学とかと横並びである。と自分に言い聞かせた
(いま思えば全然レベルがちがう)
1990年という史上最高の受験戦争のなか
現役ではそこしか合格しなかったのだ!
入学の日を間近に迎え、私は大学に行くことにした。
新横浜から親戚のいる岡山までひかりで4時間以上かけていき
親戚の家で初日は宿泊。(のぞみが出来たのは1992年)
岡山から福山までこだまで行き。
福塩線というローカル線に乗り、
三次(塩町)でさらに芸備線(汽動車!)に乗り換えなどして
岡山から確か4時間以上をかけて「備後庄原駅」に着いた。
新横浜からだと両日併せて9時間近く乗っていたことになる。
広島県立大学の大学受験は
広島市の代々木ゼミナール広島校で行われたから、
生まれて初めて庄原市に降り立った瞬間である。
神奈川で育った自分には地方、しかも地方の田舎というものがわかっていなかった。代ゼミ広島校を見て、おお広島大都会だ!と思っていた。
関東、関西から受験した高校生はみなそう思ったに違いない。
1990年当時すでに駅前にはほとんど何もなかった。入学時期だというのに閑散としていた。唯一あった店が岸商店と美可久。美可久で(たしか)親子丼を食べた。比婆美人(地酒)というネーミング、婆さんと比べて美人ってすげえなと思った。比婆(山)とは備後地方の山の名前だった。
駅から大学まではバスで45分かかるそうじゃないか
バスセンターに行けば大学生がいるに違いない。私は東京や大阪行きの高速バスも止まるという「庄原バスセンター」へ向かった。
そして、私は広島県立大学庄原キャンパスに向かうのであった!
◆◆次回は1990年当時の広島県立大(庄原)のキャンパスライフについて思い出し書きする。(予定です)なお、このシリーズは庄原をディスる目的で書くものではありません。(1990年の庄原を懐古し、庄原で4年暮らしてホントに良かった。というストーリーになる予定です)◆◆
最後まで読んでいただきましてありがとうございます。
記事は自分のために書いていますが、いいねは素直にうれしいです。