広島県立大学とは何だったのか~1990年 庄原の青春~(2)県大はバブルの塔?
1990年4月に広島県立大学経営学部に現役合格し進学を決めた私のキャンパスライフを思い出し書きする予定だったが。予定変更。
「広島県立大学とは何だったのか」とタイトルをつけるからには
まず広島県立大学の設立の経緯について考察してみる。
なんで庄原なんてど田舎に国公立大学が出来たのだろう?
元自民党 亀井静香氏(中曽根内閣時に政務次官にまでなった政治家)の
郷土愛のたまものだ。
国営備北丘陵公園誘致、中国横断自動車道尾道松江線の全線開通など
中国山地でのインフラ整備の立役者だ。
国公立大学を新設するのは鉄板の町おこし
そして日本は1990年から1992年に18歳人口のピークを迎える。
1973年生まれの人が「現役で大学受験をする時」が受験が一番大変だったのだろう。一方、大学側にとっては売り手市場であった。
公務員就職に強い公立大学を新設するのは鉄板の町おこしであった。
西条(東広島市)にある広島県立農業短大を総合大学に昇格させて庄原に誘致して県北初の総合大学(4年制)を作らにゃいけんじゃろ!と
あの庄原が大学の街になるのだ。亀井先生はそう言った(と思う)。
そして♫ 景気も♫
1990年までは日本はバブル全盛期
だった♫
1990年まで日経平均株価は意味不明に上がり続けていた。
県大が1989年に開学したことを考えると
庄原にもバブルの恩恵きたーーーー!!!
てところだったと思う。
庄原市内にも今まで絶対需要が無かったであろう
鉄筋のワンルームマンションが雨後の竹の子のように建設された。
(県大開学から1年経たず日本のバブルは終わるが。)
県大生とバブル崩壊
1989年に入学したイケイケ1期生が、
就職する1993年には祭りは終わっていた。
つまり県大の初期入学者はバブル絶頂で大学1.2年生を過ごしてアゲアゲ油断しまくりだったが。
大学3・4年生では、いきなり来た就職氷河期に就職活動をするという厳しい状況になった。(この辺はキャンパスライフ編で述べたい。)
広島に限らず1990年ごろは全国の地方都市が公立大学を設立して
地域活性化の起爆剤にしようとしていた。
◆◆次回は1990年当時の広島県立大(庄原)のキャンパスライフについて思い出し書きする。(予定です)なお、このシリーズは庄原をディスる目的で書くものではありません。
(庄原で4年暮らしてホントに良かった)
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