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文化財建造物修復と日本産漆生産

1.漆の自給率はわずか8.5%

 かつて英語で「Japan」と呼ばれた漆は、日本の伝統文化を支える原材料の一つですが、国内消費の9割以上が輸入品で賄われており、自給率1割未満の大半が岩手県北内陸の二戸地域で生産されています。
 林野庁の統計によりますと、漆の自給率は昭和50年代後半の6トン台から長年に渡って減少してきましたが、平成27年頃から再び上昇に転じて令和2年には約2.1トン、自給率は6.4%に増加しています。この近年の自給率上昇は文化財建造物修復での需要が牽引しています。
 その背景にはどのような変化があったのか、本稿でお伝えしたいと思います。
(樹木は「ウルシ」、ウルシから採取した乳液は「漆」と表記します。)

グラフ:国産漆の生産量と自給率の推移
(令和3年度森林・林業白書より抜粋)

2.漆生産とは

 その前に、そもそも日本産漆はどのように生産されているのでしょうか。以下の図説をご覧ください。

図説:漆生産の流れ

 ウルシは苗木を植えてから採取(=漆掻き)まで10~15年かかります。幹回りが直径14㎝程度になると掻き頃です。
 現在でも漆の採取は、幹に専用の刃物で傷をつけて乳液を掻き取る伝統的な技法で行われています。採取できる期間は6月からの半年間に限られ、10~15年かけて育てた原木からの採取量は一本当たり200~300g程度、一度採取し終えたら伐採してしまうという希少な天然材料です。この伝統的な採取法は「殺掻き」と呼ばれています。
 一度掻き取ったウルシは伐採されますが、根から萌芽肢(ぼうがし)が多数生えてきますので、これを仕立てると10年程度で再び採取することができます。
 少し専門的な話になってしまいますが、伝統的な採取法では傷害によって樹体内のホルモン合成が行われ、新たな樹脂道(漆を溜める組織)の出現を促し、滲出量を増やしていくという漆生成メカニズムを上手く利用しています。
 この採取法は江戸時代後期の文献にも記録がありますが、観察や経験、勘を頼りとした”暗黙知”である伝統的な掻き方が、樹木生理に合致していたことが近年の研究によって”形式知”的に判明してきています。この貴重な一滴は決して無駄にすることはできません。
 漆掻きは、採取作業と携わる職人はどちらも「漆掻き」と呼ばれ、シーズンで一人平均50kgの荒味漆(あらみうるし)を生産します。二戸地域で生産された漆は旧町名を冠して「浄法寺漆(じょうぼうじうるし)」と呼ばれて認証制度も確立されています。
 令和2年6月には岩手県北地域の漆文化が日本遺産に、同年12月には漆掻きを含む「木造建造物を受け継ぐための伝統技術」17件がユネスコ無形文化遺産に登録されました。
 採取された荒味漆は攪拌・脱水工程の「精製」や色の練り合わせ等を経てはじめて塗料となり、文化財修復、漆器、工芸品に使用されます。

3.平成27年2月の文化庁通知

 文化財修復と漆の話に戻ります。平成27年に当時の下村文科相は記者会見で「近年、国内の漆需要の減少によって日本産漆の生産量が減少している。このため確保が難しく、コストが高くなったことによって中国産漆との混合使用が行われていたが、文化財建造物の修理は本来の資材・工法で修理することが文化を継承する上で重要である」と述べ、国宝・重要文化財建造物の保存修理では原則として日本産漆を使用するよう都道府県教育委員会に通知がなされました。また、その後の文化庁の調査により、文化財修復に関する日本産漆の需要量は年間平均約2.2トンと公表されています。

資料:文化財建造物と日本産漆

 この通知以前は中国産7割、日本産3割の混合使用が長年続けられてきました(日光二社一寺は除く)。日本産漆の単価は中国産の7倍から8倍近く高額であるということが全量国産化できない理由の一つとされてきました。  
 しかし、平成26年に改めて行った試算では、修復工事の場合、その費用の大半は職人の労賃が占めているので、漆を全量国産化しても総工費で5%~10%の上昇で済んでしまうことがわかりました。当時の文化財建造物保存修理予算は81.3億円でしたが、これに対して1.4億円の予算追加が出来れば可能と判明したのです。
 国産化で得られる効果は多岐に渡ります。国税の使い道が国内になったことで、経済面では産地の漆掻き職人の仕事量や収入、就業人口が増加すること。増産により植栽が進み、耕作放棄地や伐採更新地の利用が進むこと。文化・観光面では、道具制作を含めた漆生産技術の継承、日本産使用による文化財の価値向上、また、文化庁の「美装化事業」という新規事業(当時)と組み合わせることで文化財の部分修復が進み、保全と観光資源としての活用の両方が促進されます。
 その一方で、平成26年当時の全国生産量は1トンに過ぎず、漆掻き職人も大半が60歳以上と高齢であったため、国産化に否定的な意見もあり「国産漆増産は絵空事」という記事も見受けられました。また、段階的な割合増加でないことに現場から不安の声もあがりました。
 文化財修復における国産化の目的は、自給率を数十パーセントに引き上げたいとか、中国産漆の品質が悪いから、ということではありません。むしろ、大量に生産されている中国産漆のほうが安定した品質を供給できている面もあります。この政策の哲学は実にシンプルで「国の宝物を税金を使って修復するんだから、国内にある原材料を使って文化を継承しようよ」ということです。

4.岩手県二戸地域での増産

 さて、文化庁の通知後、一大産地である二戸では増産に向けた挑戦がはじまりました。
 漆掻き職人で構成される岩手県浄法寺漆生産組合は、二戸市と連携して毎年増産を続けています。20名程度だった組合員に漆掻きの研修修了生を受け入れることで倍増となる40人体制を目指しました。今や20代から30代の女性の漆掻きも珍しくありません。
 日本うるし掻き技術保存会は国産化通知前から技術継承のために長期研修を毎年実施してきました。増産で需要が増えた漆樽や刃物の道具製作者の育成事業も行っています。
 二戸市役所には全国で唯一、漆振興を業務とする「漆産業課」があります。総務省の地域おこし協力隊制度を活用した漆掻き職人や苗木生産者などの人材育成や、市の総合計画では「世界に誇る漆の郷(さと)の創造」を掲げ、漆文化の発信と関連産業の振興に取り組んでいます。このほか、岩手県や地元森林組合、地元企業と連携して漆生産に関する幅広い取り組みを実行中です。

資料:日本産漆の生産量推移

 平成27年2月の文化庁通知から丸7年が経過しました。この間の生産量推移を見ますと、令和2年の全国生産量は2,051kgで、平成26年の2倍になりました。非食用の特用林産物17品目のうちで6年前から増加したのは木質粒状燃料(木質ペレット)と生うるしの2品目のみです。
 上記のグラフは浄法寺漆生産組合の生産量と在庫、職人数の推移です。青棒が生産量、オレンジが在庫、折れ線グラフが職人数です。長期需要低迷により平成23年には1.9トンに膨れ上がっていた在庫は、25年頃の生産調整によって減少、27年の文化庁通知以降は完全に解消され、採取された漆は直ちに出荷される状況に様変わりしました。
 令和3年の生産量は1,672kg、組合員数は目標としていた40人体制に目途がつき、コロナ禍において漆器や工芸品向け需要はかなり減ったにも関わらず、文化財向け漆の需要はその影響をほとんど受けていません。生産組合出荷量の8割が文化財向け、2割が漆器等向けとなっています。
 このとおり、おおむね順調に進んでいる理由としては、はじめに“出口”となる継続的な需要が作られたことがあると考えられます。これにより、川上の漆生産地で安心して増産への投資が行われ、成果として、生産量増加とともに後継者不足解消、職人の若返りや移住者増加に加え、伝統技術の継承、漆栽培と生産に係る研究数の増加、観光商品開発や伐採後の原木資源利用などの関連事業の拡大、自治体の知名度向上などが実際に起こりました。

グラフ:令和3年の都道府県別生うるし生産量

 上記グラフのとおり、令和3年の全国生産量2,036kgのうち82%が岩手県で生産されています。そして県内の生産量=岩手県浄法寺漆生産組合の生産量1,672kgとなっています。

5.小西美術工藝社の取り組み

 当社は国宝・重要文化財建造物や美術工芸品の装飾修理、新規調製の請負業者です。日光東照宮造成に端を発し、300年以上の歴史がある老舗で業界最大手です。漆塗のほか、極彩色、丹塗り、錺金具などの総合装飾技術を全国で唯一、一社単体で保有している企業です。全国の重要文化財等を約300件、維持管理を含めて繰り返し施工してきました。毎年、大小合わせて70件前後の工事を竣工させています。

資料:当社取り組みのご紹介

 事業所は全国6か所ありましたが、漆の国産化を受けて平成28年に漆生産部門である二戸支社を設立いたしました。
 修復工事にとって漆の供給は“生命線”であることから、漆生産地の発展と永続に貢献するために苗木生産からウルシ林造成管理、漆掻きまで、文化財修復用の漆の自社一貫生産を行っています。
 令和4年10月現在、二戸支社の従業員は地元出身者を含む8名、うち漆掻きは4名で平均年齢が28.6歳です。月給制の正社員雇用で、漆掻き期間以外は当社の修復工事に配属することで通年雇用の環境を整えました。
 これまで個人事業主のみだった漆掻きを企業で行うことに、はじめ地元では抵抗感があったのは事実ですが、開設以来、着実に実績を重ねたことでご理解を賜り、二戸市と連携協定を結ばせていただき、廃校を改装して事業所として使わせていただいたり、企業として初めて漆生産組合の正組合員に認められるなど、二戸地域と共存共栄の関係性を構築することができました。
 これまでに生産した漆は同期間の組合生産量の10%となる721kg、直近4ヵ年で植栽した本数は7,800本。自社開発したコンテナ苗によるウルシ苗生産と、乗用草刈り機導入による下刈費用の圧縮を実現しています。
 二戸支社のミッションは「持続可能な漆生産を通じて、国宝・重要文化財の保護と里地里山の保全活用に貢献する」です。この実現のために社員全員で日々精進しております。

 現在、二戸支社では「漆掻き・寺社仏閣の漆塗り手元」として、国宝・重要文化財を次世代に繋ぐために一緒に働いてくれる方を募集しています。
 ぜひ以下の記事をご覧ください ↓

https://www.konishi-da.jp/recruit/urushi-seisan/

ウルシ苗木の栽培