田舎にきて思うこと
田舎というとなんだか違うような気がするんだけど、でもなんかいい言葉が見つからないので”田舎”と表現するんだけど、
奈良三宅町に来て、1ヶ月半。
今までカブトムシ・クワガタ虫以外の虫をまじまじと見たことがない環境で育った私は、奈良に来ると毎日いろんな虫に出逢います。時にはカエルにも。
虫が得意ではないので、すごく驚きますし、お家に虫が入ってきて、同居はまだまだ緊張感があります。家の前に大きな虫がいて(見たこともない大きさだった)、家から出れなくて追い払ってもらったこともあります。
でも、虫から学ぶことがたっくさんあります。
虫ってさ、すぐ死んじゃうの。
同居が始まってしまった…と思った蜘蛛が翌日に亡くなってたり、雨の日の次の日は蛙が道で亡くなってたり、小さななんて名前かわからない虫は何もしてないのに死んでしまってたり…
なんでいうのかな、命ってすごいなって。
こんなにすぐ死んでしまったり、他の敵から攻撃されたりしてでも一生懸命生きていて、そんな命もある中で、人間は80歳ぐらいまで生きたりするの。心ない言葉で人を攻撃して人の命を奪ったり、自分で自分の命を終わらせたりするの。
弱肉強食のように、生きるために誰かの命を頂いたりそういう動物的なことがある世の中で、人間は物理的に生きれているのにそういうこともある。
な〜〜んでかな。生きるがもう違うんだろうね。
生きるが違うとすると、いじめとかそういうものは、人間として生きるために人の心を頂くってことなのかな?そういうことでもらえる心ってなんだろうね。何が欲しくて、何を生きるとして、どうしてこんな感じになるんだろうね。
命があるだけでなんでダメなんだろうね。何が足りないんだろうね。
つまり、田舎に来るということは、命を学ぶことでもあるのかもしれないね。都会は、生き物が亡くなっていることを見たことがない。見たことがないのか、見えないのか、見せないのか。わかんないけど。
そういうこと。
私は奈良に来て一番学んんだことかも。今のところ。
ちなみに…宇多田ヒカルのPrisoner of loveによると、満ち足りているのに奪い合うのは、愛の影を追っているかららしい。愛じゃないんだね。愛の影なんだね。私は愛されていると思うし、愛せるものもあると思うけど、でも愛の影を追いかけている人も事実で、でも愛の影を追いかけることがなぜ奪い合うことになるのか、まだちょっと理解しきれないね。