先輩の部屋
はじめての部屋は初めての一人暮らし。
それはつまり東京のはじまりということになる。
先輩は東京の美大予備校に通っていた。
1つ上の先輩はオシャレすぎるログハウス風の家に住んでいた。長男の自分にとっては兄のような存在だったんだろう。いろんなカルチャーを教えてもらった。家に遊びに行った時、床にスマッシングパンプキンズの二枚組CDが転がっていた。今思うとあの時、それを聴いた時、まさに"tonight,tonight"のイントロみたいに、自分の人生が転がり始めたのかもしれない。
人口5万人の町。市内唯一の県立高校に通った。勉強はできなかったけど絵を描くのは好きだった。それを仕事にしたいとすら思っていた。ぼんやりと美術系や美術教育系の大学を調べては、志望校の欄に偏差値の遠く及ばない有名国公立大学の名前を書いていた。
先輩からはいろんなCDを借りた。どれも当時の最先端だったけど、流行のど真ん中をあえて避けていく音だった。地元のCD屋のレコメンドに上がってくる音楽はすでに大ヒットしているものばかりで、グッと来ない。先輩から教わったバンドはどれもとても尖っていて、曲もPVもジャケットワークも衣装も発言すらもとにかくかっこよかった。
先輩は卒業して東京に行った。"ビダイヨビコウ"というところに通っているらしい。そこで美大というものを知る。自分も美大に行きたくなった。そして"ビダイヨビコウ"が美術大学への進学をサポートする特殊な予備校で、狭き門を目指す同い年の手練れたちが受験日の何ヶ月も前から毎日全力でぶつかり合いながらしのぎを削り、合格するため切磋琢磨している場所だと知ったころはもう本番の2ヶ月前だった。
先輩からの勧めもあって、同じ予備校の冬期講習会に参加した。10日間ほど、正規学生に混じって同じ課題をこなす。毎回コテンパンになりながら。
講習会中は東京の先輩の部屋に泊めてもらった。
本当ならホテルを取るべきなんだろうけれど、今みたいに快適なネットカフェやカジュアルなゲストハウスなんてものはなかったし、高額な冬期講習会費に加えて10日間ものホテル代をほいほいと捻出してもらえるような裕福な家庭ではなかった。そもそも、講習会に参加できたのも、先輩の家に泊めてもらえるという後ろ盾があったからだ。
先輩の部屋は立川駅から徒歩20分のところにあった。決して駅近ではないけれど、最寄駅から車で15分かかる実家と比べたら歩いて家に帰れるだけで便利に思えた。
開発中の南口はまだまだ個人商店が軒並みを揃え夜はガヤガヤと賑やかだった。(1998年当時まだ多摩モノレールは多摩センターまで開通していなかた)
飲み屋とゲームセンターとラブホテル街を抜けて通りに出る。初めて見るロイヤルホストを横目に長い坂を下るともう少し歩けばもう多摩川だった。見たことのないコンビニや焼肉チェーン店が近くにあり、夜中でも減ることのない車の往来に都会を感じて意味もなく興奮した。
オートロックのマンション。コンクリートの壁。青いドア。ユニットバス付の6畳ワンルーム。ベージュグレーのカーペット。白い壁紙。2階角部屋。ちょうどそれは実家の部屋くらいの広さだった。最大の特徴はガラスブロックの埋め込まれた壁。柔らかくフィルタリングされた外光と景色が入ってくる。こんな壁の部屋なんて見たことなかった。
先輩の部屋は無造作に積み上げられたCDの塔が壁の半分を埋めていた。今思うと小沢健二のEclecticのジャケットみたいだ。白い壁にはブエナビスタ ソシアルクラブのポスターが貼られていた。レンガと合板でDIYした棚にはターンテーブルが置かれていた。(先輩はDJもやっていた)その横には夕日に照らされた灰皿が。その下には当時まだ読んだことのなかったスタジオボイスがずらっと並び、とにかくなんだか全部かっこよかった。
先輩の入れてくれたネルドリップのコーヒーの匂いが部屋を満たす。
その部屋は東京の印象を決定づけた。
1人東京で堂々と生活する先輩の姿はかっこよかった。迷うことなく吉祥寺で乗り換えて、乗り換えるついでにとユザワヤを通り抜けて吉野家で牛丼を食べた。普通のことだけど。
井の頭線に乗って見かけた"下北沢"にまた興奮した。
今思うと、田舎の高校生には東京の全てがまばゆかったんだと思う。
"今思うと"という枕詞を思い出すことの全てに採用しないといけないくらい、あの頃の自分は本当に何も知らなかったし全てに希望しか見ていなかった。
そしてその年、先輩は合格して、自分は落ちた。
先輩は合格した大学の近くに引っ越すらしい。
「おれ引っ越すし、あの部屋、紹介しようか?」
「住みたいです!」
即答した。
"ビダイヨビコウ"での浪人生活はあの部屋以外では考えれらなかった。実家に帰り、東京で浪人させてくださいと生まれて初めて親に土下座した。
4月。先輩の部屋ははじめての自分の部屋になった。家賃5万円。1ルームの相場なんてわからなかったけどあのかっこいい部屋に住めるなら5万は安いと感じていた。
東京での生活がはじまったその部屋には5年くらい住んだと思う。渋谷や新宿で遊ぶのが好きなのになんで5年も立川にいたんだと今は思うけど、それだけあの部屋のことが好きだったんだと思う。
"〇〇マンション 207"
マンションの名前も、部屋番号も帰り道も覚えている。
もう20年も前の話なのに。
あんなにかっこよかった先輩の部屋は5年の間に思い出すことすらはばかられる数々の黒歴史と、誰にも咎められることなく好きなだけ買い集めてしまう雑貨や古着やCDで埋めつくされてしまったけれど。
あの部屋からはじまった東京での生活はどうにか、なんとか、今も続いている。
先輩、ありがとうございました。
はじめて自力で借りたボロアパートの話はまた次の機会に。