_コンビニ人間_で常識について考える

「コンビニ人間」で常識について考える【ネタバレあり?】

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「コンビニ人間」はよく、「常識について考えさせられる」本として紹介されます。私は一般的だとか常識とか普通とかそういった言葉でくくられるのが嫌いな人間なのですが、この本を通して改めて「常識とは何か」についてや、「常識は必要なのか」など常識との向き合い方について考えてみました。

※ネタバレありかも※

まったく一般的ではない主人公、古倉恵子

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主人公の古倉恵子は、36歳で未婚、大学卒業以来18年間コンビニでアルバイトをしている。
これを聞いただけで、
「えっ、なんで就職しないでずっとアルバイトなの?」
「えっ、結婚もしていないのにアルバイトなの?」
と疑問や驚きを感じる人がきっと世の中の大半を占めると思う。
一定の年齢を迎えると、就職か結婚で社会と接続することが「一般的」とされているからだ。
この小説の中でも、主人公に対して就職が難しいにしても結婚はした方がいいと言う人がいる。

他にも主人公を異質に感じる下記のような性質がある。

■ コンビニ以外のことで感情が動かない
主人公は36歳で未婚、バイト経験しかないという異質な経歴から、周囲の人々にいろいろ言われてしまう。

「え、ずっと……?いや、就職が難しくても、結婚くらいした方がいいよ。今はさ、ほら、ネット婚活とかいろいろあるでしょ?」
「バイトのまま、ババアになってもう嫁の貰い手もないでしょう。あんたみたいなの、処女でも中古ですよ。薄汚い。縄文時代だったら子供も産めない年増の女が、結婚もせずムラをうろうろしてるようなものですよ。村のお荷物でしかない。俺は男だからまだ盛り返せるけれど、古倉さんはもうどうしようもないじゃないですか」
『勘弁してくださいよ……。バイトと無職で、子供作ってどうするんですか。ほんとにやめてください。あんたらみたいな遺伝子残さないでください、それが人類のためですんで』

それに対して、怒ったり泣いたり不安を感じたりなど動じたりは一切せず、ただ相手の発言を分析したり、発した拍子に唾液が飛んでいくことの方を気にしている。自分のことでストレスが溜まって泣いてしまう妹に対してもまったく気にした様子はなく、その妹を前にしてプリンを食べてしまう。

それに対して、小説の中盤で、自分が働くコンビニの同僚や店長がみんな他の話題に夢中で、コンビニの業務に集中できていない場面で、主人公は涙ぐみそうになっている。
古倉恵子は自分に対してストレスになるようなことを言われても無関心だが、コンビニの業務に支障が出ることが起きると感情が動く。まさにコンビニのために生きているような人間ともいえると感じた。

■ 短絡的で合理的

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主人公が小学生の時の話、体育の時間、男子が取っ組み合いのけんかをして騒ぎになったとき、「誰か止めて!」と悲鳴が上がったとき、「止めればいいのか」と思い立ち、スコップで男子の頭を殴って動きを止めるというエピソードがある。先生に説明する際に「止めろと言われたから、一番早そうな方法で止めました」と言う。

- なぜけんかを止める時人を殴ってはいけないのか
このエピソードを読んで、いきなり人を殴ってはいけないだろうと反射的に思ったけど、それはなぜなのかと聞かれたら考えたことがなかった。世の中の常識としてその様になっているからだが論理的に説明するとしたらどういえばいいのだろう。

確かにスピードだけで言えばもっとも早い方法はスコップで殴ることかもしれない。ただ、殴って終わらせるというのはあくまで最終手段である。殴ってしまっては最悪再起不能になってしまうかもしれないし、取っ組み合いのケンカによって、周りの人にケガなどの影響がないのであればそれ以外の方法で止められないのか考えた方がよいと思う。殴ることによるリスク、デメリットが大きすぎるので、メリットやデメリットを天秤にかけていちばんバランスの良い解決方法を考えた方がいいのではないかというのが私の考えだ。

主人公は先生から怒られても理由はまったく理解できないのだが、本件について母親が自分の代わりに謝っている姿を見て、やっといけないことをしたのだと理解した。

自分のしたことはどうやらいけないことだったらしいと思ったが、それが何故なのかは、理解できなかった。

なぜ悪いことなのかが理解できないので、従っていれば間違いのないマニュアルに沿って動くことこそが、古倉恵子にとって社会で生きる手段なのだ。

■ 自分の趣味や嗜好、意思がない

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古倉恵子には食べたいものや身につけたいものなどじぶんのこだわりがまったくない。普段はキャベツやジャガイモを茹でたものを食べたり、身につけるものに関しては、同じ年代の同僚が身につけている靴の名前やコートのタグ、化粧品などを参考にしている。

食べ物を選ぶときは「美味しいから」「安いから」など、
服や化粧品を選ぶときは「パッケージが可愛いから」「コスパがいいから」「肌触りがいいから」など、
何かしら理由やこだわりがあって選ぶ人が多いし、その理由こそがその人の個性や生き方を表していると思うが、古倉恵子にはそれがないので、服装に関しては周りから浮かないようにという理由で周りの人のまねをして生きているのだ。

死んだ小鳥と摘まれる花、かわいそうなのはどちら?

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小説を読んで一番印象に残ったエピソードだ。
主人公が幼稚園のころ、公園で小鳥が死んでいて、他の子どもたちはその小鳥を見て泣いていた。

それに対して主人公は、その小鳥を母親のもとへ持っていき、焼き鳥にして食べようと言うのだ。

ここでは、死んだ小鳥を可愛そうだと思うことが世の中の常識で、死んだ鳥を食べようと思う主人公が非常識だと描かれているのだと思う。

確かにすでに死んでしまっている鳥は食べてしまった方が合理的なのかもしれないが、可愛らしいと感じる小鳥を食べようとは思えないだろう。
鶏肉や牛肉、豚肉や魚など生きていた動物を食べることができるのは、そのような生物に愛情を感じたことがないからかなと思った。

一番印象に残ったのが、死んだ小鳥に花を供えるシーンだ。

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みんな口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。「綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ」などと言っている光景が頭がおかしいように見えた。
小鳥は、「立ち入り禁止」と書かれた柵の中に穴を掘って埋められ、誰かがゴミ箱から拾ってきたアイスの棒が土の上に刺されて、花の死体が大量に供えられた。

死んだものを弔う時に花を供えるのは常識だと思っていたけど、確かに花は生まれて育って死んでいくので同じ生き物だ。死んでしまった小鳥をかわいそうだと思うのは自然だけど、その小鳥を弔うためにさっきまで生きていた花を殺して鳥を弔うのは自然なのだろうか

私が考えるに、小鳥は死んだことがかわいそうということがわかりやすい。
動きもあるし、鳴き声もあるし、感情も伝わるだろう。
花は、動かないし、鳴いたりもしないし、感情はそもそもあるかどうかすら分からない。
きっと、感情が分かりやすい生き物や自分たちと近い生き物に共感・同調しやすいから、感情があるかどうかわからないし自分たちとは遠い存在である花の命など気にせず、死んだ生き物を弔う時に別の生き物を殺して弔うというようなことが自然になっているのかなと感じた。

常識とは何か

常識は、社会を構成する者が有していて当たり前のものとなっている、社会的な価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。対義語は非常識。社会に適した常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。
-Wikipedia

この小説を読んで改めて常識の定義について考えてみた。
常識とは、過半数以上の人が正しいと判断すること。知っていること。
共感、理解を得られること。違和感がないこと。不快ではないこと。

主人公の古倉恵子は30を過ぎて就職も結婚もできていないことは世の中の人から共感、理解を得られることではないし、違和感があるので常識的ではない。

ただ、今の常識として死んだものを弔う時に花を殺して供えることは当たり前だけど、本当にそれって正しいことなのか?花は絶対に備えなくてはいけないもの?無機物を備えるという選択肢もあるのではないか?

常識に順応する力と常識を見極める力

社会を生きる上で今の常識が何かを知って、同調・共調していく力は必要だと思う。いくら正しくても、周りから異物だと思われると排除されてしまうからだ。

ただ、常識は時代とともに変化するもので、以前常識だったものが覆ることは往々にしてある。思考停止して今の常識に従っているだけだと、実はその常識が古かったり間違っていた時に気づくことができない。常識に順応していく力とともに必要なのは、今の常識が正しいのかどうか見極めていく力だと思う。常識に対して違和感を感じたときに、その目の前の常識を論理的に説明できないとしたらもしかしたら常識が変わるタイミングかもしれない。

具体的に常識を学ぶ手段はないので、これからも社会で生きながら常識を学んでいくが、ただ何も考えず常識に従うのではなく、常識を見極める目も持ち続けていたいと思いました。

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たんたん@フリーランスPMO
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