ここじゃないどこか 何者かに成りたい私

「何者かになりたい」

私が管を巻くときに必ず出てくる言葉だ。
大抵の場合、半分泣いたような笑ったような調子で「私って、どうしたらいいですか?」と言ったあと、二言目にはその言葉が出てくる。
それを言うと必ず問われる。
「何者になりたいの?」
さて、私は何を成して何に成りたいのだろうか。

結論から言うと、「何者か」の具体性はない。
お花屋さんとかスポーツ選手とか、そういう職業名をホイと返せるものではない。
疲れた人がよく「ここじゃないどこかに行きたい」と言うことがある。
それに対して一定数ある答えと一緒だ。
「具体的にどこというわけじゃない。ただ、とにかくここじゃない場所に行きたい」
私の、何者かに成りたい欲求もそう。
「具体的に何かわからないが、とにかく何者かに成りたい」
これに尽きる。
私は、過程をすっ飛ばして結果だけを手にしようとしているのだ。
何かを成したい。何者かに成りたい。
でも、何をしたらいいかわからない。何者に成りたいのかもわからない。
その堂々巡りの中で延々もがいている。

そもそも、「何者か」の定義とはなんなのだろうか。
定義づけは人それぞれだろうが、私の中ではひとつの答えが暫定的に出ている。
それは、「自分に認められる自分であること」だ。
つまり、自己承認欲求なのだろう。
なら、自己完結できる。自分で納得できればいいのだから、他者に「何者かに成りたい」と宣言する必要さえない。
しかしそこは私という人間の妙で嫌な部分で、自分で自分を認めるためにわかりやすく数値化されたり物質化されたりした実績が必要なのだ。
なんらかの実績を作って、形となる何かを遺すこと。
これに腐心してしまう。
たとえば、小説を十万字書いて一冊の本にするとか。
たとえば、チャンネル登録者数が何百人の配信者になるとか。
これが本当に困った癖と言うか厄介な部分で、前者は個人の頑張りでなんとかなるとしても後者には「他人からの承認」が必要になる。
「自分に認められる自分であること」という個人で完結できる前提に、俗に「承認欲求」と呼びならわされるものが付帯してくるのだ。
「自分」を認めるために「他人」が必要になってくる。
これは、もはや自己承認欲求なのか他者承認欲求なのか、境目がわからない。
恐らく、自分以外が見ればわかるものなのだろうが、近すぎると真実は見えない。
私は、自分を近くから見つめすぎるがゆえに、自分のことがわからないでいる。

いっそ、ここじゃないどこかに行きたい。
そして自分自身をそこから見つめてみたい。
そうすれば、自分が何を成したくて、何者に成りたいのかも、少しかわかる気がするのだ。

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