髭とぶどう(五年ぶりに弟と会話した話)

五年ぶりに弟と話したので、
その時の会話と気持ちを私小説のかたちで残します。
(あんた、そういうところが弟に嫌われた一因じゃないのか)


【髭とぶどう】


「久しぶりー」
 五年ぶりに聞いた弟の声は相変わらずけだるげだった。
 言葉の端っこが間延びして、玄関に落っこちる。
 私は目に見えないそれを追いかけるように玄関の床に視線を落とした。
「久しぶり、」
「おじゃましまーす」
 視線を下にやった私にかまうことなく、弟は靴を脱いで部屋にあがっていった。
 まるでお客さんみたいにお邪魔しますと挨拶するくせにしぐさは住人のそれだからチグハグさに少し面食らう。
 実家に出戻った私と入れ違いに弟が出て行ってからもう三年になる。
 私のいない隙を見て何度かこの家を訪ねる機会もあったろう。
 そうでなくても、実家は実家なのだから、このしぐさは少しも間違いではないのだが。
「あ、ニーア買ったの? これ面白い?」
 玄関に突っ立ったままだった私に、弟が振り返る。
 テレビ台に置いてあったゲームパッケージを手に取ってこちらを見ている姿は、まるで昨日も仲良く食卓を囲んだかのような連続性を感じさせた。

私と弟は、五年前から会話をしていない。
 それより前も会話らしい会話をした記憶はない。
 なんなら、最後に仲良く姉弟らしいことをしたのは十一年前に映画を見に行ったときのことだから、途方もなく昔だ。
 弟と仲たがいしたのは、なぜだったろうか。
 父親を取り巻く逮捕劇。急に手狭な家に引っ越すことになり、私たち家族はぼんやりと、しかし確実に疲弊していた。
 私はあからさまな躁鬱の波に翻弄されていたし、弟はそんな私に苛々してどんどんとげとげしくなっていった。
 ネットゲームにはまり込み母親のお金を勝手に使いこんでしまった弟を私は父親そっくりだと軽蔑したし、弟はうつ状態で仕事を休みがちな私を激しく糾弾した。
 泥を掛け合うような毎日で、私はよく家を飛び出しては路上で眠り通報された。
 私と弟の仲は、良いとは言えなかった。五年間、一言だって交わしていなかった。

「ねぇ。ゲーム、面白いの?」
 ぼんやり弟の足元を見つめていた私にしびれを切らしたのか、会話のボールはもう一度投げられた。
「あ。あぁ……忙しくて、まだやってないの」
 私は今度こそボールをキャッチして投げ返す。
「へぇ。そう。俺は続編やったけど、面白かったよ」
「そうなんだ……。プ、PS4持ってるの?」
「いや~パソコン版。最近、パソコンでできるゲームしか買わないからさ」
 弟はすぐにボールを投げ返してきた。
 キャッチボールをぎこちなくしかできないのは、私だけ。
 私だけが、二人が不仲な世界線に取り残されてるみたいだった。
 弟は私と他愛ない会話をして、時折家族で食事に行くような、そういうなんでもないけどあたたかい関係性の世界から来たのかもしれない。
「忙しくてって、今仕事してんの?」
 弟は猫背をますます丸めて、私を覗き込んだ。
「ううん。この間辞めた。職業訓練校に通ってるの」
「なんの勉強してんの?」
 弟が私に興味を持つーー話の広がりを求めているだけかもしれないがーーのは、本当に久しぶりのことだった。
 私はびっくりして、思わず足元に向けていた視線を上にはね上げた。
 そこには、すっかり大人になった髭面の弟がいた。
 弟は、大人だった。
 子ども時代のまま、わだかまっていたのは私だけ。
 本当にいろいろないさかいがあった。
 他人に話すとびっくりされるような暴言を言われたこともあったし、逆に私が他人が引くほど暴れたこともある。
 しかしそれは、弟の中ではもう過去のことなのかもしれなかった。
 そう思うと、私は、本当に変な気分になって、口から妙な息が漏れた。
「デザインの勉強してるの。それなりに、頑張ってる」
「ふーん」
「それより、何の用もなく来たんじゃないんでしょ。土鍋借りたいってお母さんから聞いてるよ」
 私は土鍋を新聞紙でくるみながら、信じられないほど流暢に弟と他愛もない会話ができた。
「ねぇ、今度家族でお墓参りに行こうよ」
「ああ、いいよ」
「そのあと、お寿司でも食べに行こう」
「うん。ちょっと高い回転ずしがいいな。俺、いくらとマグロが食べたい」
 ニタ、と笑う癖のある弟の口元には髭があって本当に不思議な感じがした。
「じゃ、俺これから友達と鍋パするから行くわ」
 弟は土鍋やらカセットコンロやらボンベやらを抱えて、アパートの狭い玄関でサンダルをつっかけて出ていこうとする。
「あ、ちょっと待って……」
 私はその背中に思わず声をかけた。
「なにー?」
 間延びした返事が、また玄関のたたきに落っこちる。
 振り返った弟を呼び止める用事なんて、本当はなかった。
 ただ、五年間の空白をあと数十秒分でも埋めたかっただけだ。
「ぶどう! ぶどう、持っていきなよ。友達と食べな」
「はぁ? いいよ。母さんと食べなよ」
「いいの。二房あるから! 種のないやつだから、食べやすいから。ね!」
 私は祖母の遺影の前に備えていたぶどうをひと房押し付けた。
 玄関からほんの数歩で行って帰ってこられる家だから、弟は玄関で待っていてくれた。
「……母さんに似てきたというか、飴くれるオバサンみたいになったな」
 弟は髭の生えた大人になっていた。
 私も、弟からそう見えていたらしかった。
 私たちは、思わず笑った。
「アハハ」

(おわり)

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