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グラフィックから公共空間 ハーバード大学教授 片山利弘さん

夏に大分県在住のスタッフから、段ボールいっぱいのかぼすをもらいました。 

お刺身や唐揚げなどいろいろなものにかけて楽しんでいましたが、 そろそろ黄色く熟してきてもまだいくつか残っていたので、 「かぼす酒」を初めて作ってみました。

 1~3ヶ月後に飲み頃だそうで、とても楽しみです。


グラフィックから公共空間

ハーバード大学教授

片山利弘さん


本日のグラフィックデザイナーシリーズの最終回は、独学でデザインを学んでから、日本デザインセンターを経て、ハーバード大学教授を務めた、片山利弘さんをご紹介します。


木村恒久さんとの出会いから

日本デザインセンター参加


片山さんは、1928年に画家片山弘峰さんの次男として大阪府に生まれました。 

独学でデザインを学び、24歳の時、1952年の毎日新聞商業デザインコンクール第20回で、新聞広告「サンヨーラジオ」により通産大臣賞を受賞。

 このコンクールでポスター部門の技能賞を受賞した木村恒久さんと出会いました。
その後、コンクール入賞者の懇親会をきっかけに、永井一正さん、木村恒久さん、田中一光さんとデザインの研究会「Aクラブ」を結成しました。

永井さんの話によると、4人は永井さんの狭い下宿に毎日のように集まり、互いの作品を見せ合って議論や批評を行っていたとのことです。
また、大阪からは早川良雄さんや山城隆一さん、東京からは山名文夫さん河野鷹思さん亀倉雄策さんなどのデザイナーをAクラブに招待し、多くを学んだそうです。
この4人は「若手四天王」と呼ばれ、精力的にデザイン制作や批評活動を行っていました。

 同年、片山さんはフリーランスのデザイナーとして活動を開始し、日本宣伝美術会の会員となります。
この頃、第2回記録映画の会「忘れられた人々と安部公房特別研究報告」(大阪・大手前会館)の告知ポスターのデザインを手がけたことをきっかけに、幾何学的な基本形態とその規則的な配置を用いた制作手法に取り組むようになります。

 1959年31歳の時、片山さんは亀倉雄策さんが主催する「グラフィック21の会」という、毎年21日の日に開く勉強会に参加。 

当時、新進の映画監督だった勅使河原宏さんや作家の安部公房さんと関わりを持ち、建築家の清家清さんなども参加するなど、ジャンルを越えた勉強会に参加しました。 

当時、片山さんや永井一正さんは関西に住んでいましたが、夜汽車で東京に向かい、学びを得てからまた夜汽車で大阪に戻るという生活を繰り返していたといいます。

 1960年32歳の時に、東京に転居します。 日本デザインセンターの創立メンバーの一員として参加し、東京芝浦電気株式会社(現・東芝)・日本光学工業株式会社(現・ニコン)・富士製鐵株式會社などのデザインを担当しました。

 また、1963年まで桑沢デザイン研究所で講師も務めました。 1962年には、「第5回日本雑誌広告賞」の機械・器具部門において、ニコンの広告「ニコレックス8 / ニコン F」で第1位を受賞しています。


その後海外へ


1963年、片山さんが35歳の時、スイスのガイギー社から日本デザインセンターにデザイナー紹介の依頼がありました。 

亀倉雄策さんが検討を重ねた結果、片山さんが適任とされ、1966年までスイス・バーゼル市にアートディレクターとして滞在します。

 1965年にはバーゼルのハーマン・ミラーで初の個展「Visual Construction」シリーズを発表し、ヴィンタートゥール、ベルン、ジュネーブでも巡回展示を行いました。 

また、同年11月には銀座松屋で開催された「ペルソナ展」にスイスから作品を出展。出品作家は粟津潔さん、福田繁雄さん、細谷巖さん、片山利弘さん、勝井三雄さん、木村恒久さん、永井一正さん、田中一光さん、宇野亜喜良さん、和田誠さん横尾忠則さんの11名です。
この展覧会は大成功を収め、わずか6日間の会期で35,000人の観客を集め、日本のグラフィックデザインの流れに大きな影響を与えました。 

その後、片山さんはフランスのロンシャンにあるル・コルビュジエ設計のノートルダム・デュ・オー礼拝堂を訪れた際、Mary Patricia Seklerと出会います。彼女の夫である建築史家 Eduard Franz Sekler がハーバード大学カーペンター視覚芸術センターの初代所長であり、この出会いが後に片山さんがアメリカに渡るきっかけとなります。

 1966年、38歳の時にハーバード大学カーペンター視覚芸術センターから招聘を受け、ボストンに移住。同センターで教育とデザインに携わり、約30年間にわたり、ハーバード大学デザイン研究科の学生を指導しました。

 1968年、40歳の時にアメリカ・グラフィック・アート協会の招待でニューヨークにて個展を開催。
同年、ボストンやカナダのトロントでも個展を行い、1970年には東京プラザ・ディックで観客参加型の作品「Square + Movement」を発表。
これはマグネット付きのエレメントを金属パネルに配置し、観客がイメージを自由に変化させられる作品でした。

 1980年代以降、片山さんは日本国内でも多くの建築プロジェクトに関与。
 赤坂プリンスホテルの大宴会場の壁面彫刻や大原美術館新館ホールのレリーフ彫刻などを手がけました。 

1985年にはボストン市地下鉄の環境デザインを担当し、駅に4×13.5mの壁画を制作。また、西武美術館のカレンダーシリーズでは、鳥の飛翔をテーマにした〈可変性〉を持つ作品を発表しました。

 1990年からはハーバード大学カーペンター視覚芸術センターのディレクターを務め、1995年に退官しました。


いかがでしたでしょうか?

 今回は、片山利弘さんをご紹介しました。

 戦後の、「Aクラブ」や「グラフィック21の会」などの勉強会や日本デザインセンターの設立など、 片山さんも、日本のグラフィックデザインの発展において、非常に重要な役割を果たした人物の一人といえます。 

さて、このコーナーでは、約7か月にわたり、 合計24名の日本を代表するグラフィックデザイナー(又はイラストレーター)のご紹介をしてきましたが、 今回で日本のグラフィックデザイナーをテーマにした連載は一区切りとさせていただこうと思います。

 日本の近代デザインは、荒廃した敗戦からの屈辱の復興期と、その後「Japan as No.1」と呼ばれるまでに経済成長を遂げる高度成長期という2つの激動の時代に花開き、 まさに「ドラマ化してほしい!」と思うほど、多彩な人物が登場しました。

 毎回、調べていくうちに、戦後という時代を生きたデザイナーたちの情熱や覚悟を持った考え方や、現代のデザインの潮流の原点、そして日本のデザインを確立するために、才能同士が呼びあうように集まり、日本のデザインの未来のために行われた活動などを知り、毎回非常に興味深い学びが多く、とても面白かったです。

 まだまだご紹介しきれたとは思いませんが、一旦このテーマでの連載はここまでとさせていただき、次回からは新たに2030年までの目標達成まであと6年を切った「SDGs」をテーマに、様々な視点でご紹介していきますので、どうぞお楽しみに!


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