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フォト・モンタージュの 草分け的存在 木村恒久さん



こんにちは!
デザインこねこの長嶺きわです。 

10月に入ってからも暑い日が続き、ずっと半袖で過ごしていましたが、 ようやく秋らしい気候になりましたね。 
寒くなるまでの間、過ごしやすい秋を楽しみたいと思います。

 先日、撮影のために初めて開成町の瀬戸屋敷に行ってきました。 
開成町の重要文化財である茅葺き屋根が特徴の、築300年の歴史あるお屋敷です。 

地域の旬の野菜や発酵をテーマにしたショップやカフェも併設されており、入場無料の施設です。

 母屋では、地域のサークルによる紙芝居や映画鑑賞、コンサートなど、さまざまなイベントが開催されていて、情報発信の場としても活用されています。 

併設されている「café hacco(カフェハッコ)」さんでは、 私は「さらっとみかん」という自家製の甘酒に100%のみかんジュースを加えたドリンクをいただきました。
甘酒とみかんジュースを混ぜて飲むと、とろっとしていて優しい甘さがとても美味しかったです!おすすめです! (写真は、さらっとみかんと、ホーリーバジルを使用したクラフトコーラです)

フォト・モンタージュの 

草分け的存在

木村恒久さん


生い立ちからグラフィックデザイナーとしての活動


木村恒久さんは、1928年に大阪府に生まれました。 
1946年18歳の時に、大阪市立工芸学校(現、市立工芸高等学校)図案科を卒業。
海軍飛行予科練習生として入隊しましたが、終戦となり、しばらくはヤミ市の片隅で看板の制作を手がけて、家計を支えていたそうです。
その後、沢村徹さんに弟子入りしてデザインの現場を体験します。 

1952年、24歳のときには、毎日新聞商業デザインコンクールの第20回ポスター部門で「ペニシリン昭和鼻薬」が技能賞を受賞。さらに翌年も「エナルモンB帝国臓器」で日宣美会員賞、第22回では「大和銀行/大和定期」で通産大臣賞を受賞しました。 

このコンクール入賞者の懇親会をきっかけに「Aクラブ」というデザイン研究会が発足します。 

その中心メンバーだったのが、木村恒久さん(24歳)と、永井一正さん(23歳)、片山利弘さん(24歳)、田中一光さん(22歳)で、4人は「若手四天王」と呼ばれ、精力的にデザイン制作、批評活動を行っていました。「Aクラブ」の活動としては、早川良雄さんや山城隆一さんらを講師に招き、勉強会を催したそうです。 

1960年、32歳のときに上京し、日本デザインセンターの設立に参加。同時に入社し、1964年、36歳で独立。 
この間、1962年には日本建築家協会主催の「モデュール展」で原弘さんと共同制作を行い、ADC銅賞を受賞。 
さらに、1964年の東京オリンピックではピクトグラムの制作にも関わりました。
1965年には、宇野亜喜良さん、永井一正さん、和田誠さんらとともに開催した展覧会「ペルソナ」で毎日産業デザイン賞を受賞。 
1968年、40歳で東京造形大学の助教授に就任。翌1969年には、美学校で図案を教え、教え子には南伸坊さんがいます。 

1981年には、池袋西武百貨店・スタジオ200で開催された「ボードリヤール・フォーラム'81」で、ジャン・ボードリヤールと討論を行いました。
木村さんは、グラフィックデザイナーでありながら、評論家や学者を唸らせるほどの論客でもあったそうです。


フォト・モンタージュ作品の

第一人者へ


木村さんは、グラフィックデザインにおいて幾何学的構成によるモダニズムのスタイルを経て、1960年代後半からはベルリンの写真家でありダダイストであるジョン・ハートフィールドの影響を受け、複数の写真を精巧に組み合わせて新たなイメージを作り出す「フォト・モンタージュ」の技法で作品を発表するようになりました。

 1970年の大阪万博では、空中テーマ館に『矛盾の壁』と題した「戦争」「破壊」「平和」をテーマにしたフォト・モンタージュ作品を制作。 
原爆投下直後の広島・長崎の記録写真を元に作られた作品には、キノコ雲や戦争で破壊された瓦礫の中に横たわる人間の足などが描かれていましたが、「表現が生々しすぎる」という理由で政府から修正要請があり、色彩が強調され、悲惨さを目立たなくする形に変更されました。 

1977年からは『季刊ビックリハウスSUPER』(『月刊ビックリハウス』の姉妹誌)で「木村恒久のヴィジュアル・スキャンダル」を連載開始。
『ビックリハウス』は、1974年から1985年にかけてパルコ出版が発行していたサブカルチャー雑誌で、 糸井重里さんやとんねるず、おすぎとピーコなどが連載を持ち、みうらじゅんさんや大槻ケンヂさん、渡辺いっけいさんなど、当時は一般人だった著名人が多く投稿していました。 

当時の編集長萩原朔美さんが「読者の上に読者を作らず、読者の下に編集者を作る」と表明した通り、読者からの投稿が雑誌の柱となり、数々のコーナーが作られた結果、パロディ雑誌として一時代を築きました。
読者主導型のコンテンツの先駆けといえると思います。 

1979年には「木村恒久のヴィジュアル・スキャンダル」の原画展が渋谷パルコで開催され、話題を呼びました。同年、作品集『キムラカメラ』も刊行され、1980年には毎日デザイン賞(1979年度)を受賞しました。

いかがでしたでしょうか? 

今回は、日本のフォト・モンタージュの草分け的存在である木村恒久さんをご紹介しました。

 木村さんは、グラフィックデザイナーとして活躍する中、 40歳頃からフォト・モンタージュ制作に精力的に取り組み、現代社会を鋭く風刺した作品を数多く残しました。 

1979年に刊行された作品集『キムラカメラ』には、大阪万博のシンボルである「太陽の塔」が大爆発する様子を描いたフォト・モンタージュ作品も収録されています。


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