日本のデザインの近代化を牽引した原弘さん(後編)
こんにちは!
デザインこねこの長嶺きわです。8月ももうすぐ終わりですね。ここから年末年始までもうすぐ、な感じです。一年はあっという間ですよね。これから暑さも和らぎますので、気を引き締めて頑張りたいと思います!(写真は最近の市民農園の様子です)
日本のデザインの近代化を牽引した原弘さん(後編)
今回も前回に引き続き、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナー原弘さんをご紹介します。
戦後高度経済成長の頃
前回は、1951年に48歳の原さんが職能団体「日本宣伝美術家協会(日宣美)」を結成したことをご紹介しました。
この時期、1946年から1969年にかけて、日本は戦後復興から高度経済成長を遂げ、デザイン分野もその追い風を受けて大きな発展を遂げました。原さんのデザインも、この時期に大きく成長しました。原さんは、自身のグラフィックワークに留まらず、デザインの文化的・技術的啓蒙やデザイン理論の構築、デザイナーの地位向上、デザイン教育など、あらゆる分野で中心的な役割を果たしました。
1952年、49歳の時に、原さんは武蔵野美術大学商業美術科の主任教授に就任しました。同年、国立近代美術館が京橋に開館し、原さんは1975年までの23年間、同館の展覧会ポスターをほぼすべて手がけました。その数は200点にのぼります。また、ポスター以外にも、招待状、展覧会カタログの表紙、機関誌『現代の眼』など、さまざまな印刷物のデザインも担当し、まるで国立近代美術館の専属アートディレクターのような役割を果たしていました。
原さんにポスターのデザインを依頼することに決めたのは、当時の国立近代美術館次長、今泉篤男さんでした。美術館活動の一部として展覧会ポスターの重要性を認識し、グラフィックデザインの第一人者である原さんに協力を依頼したのです。原さんは、「デザインとは無名性の行為」という信念のもと、「自分のポスターではなく、国立近代美術館のポスターを作る」という姿勢で取り組んだそうです。
1959年、56歳の原さんは亀倉雄策さん、田中一光さん、山城隆一さんとともに、日本デザインセンターを設立しました。トヨタ自動車、アサヒビール、旭化成、東芝、野村証券などの8社が出資し、「新しいデザインの時代において、各社の宣伝部を共同で持つ」という趣旨で設立されました。この時期、日本デザインセンターは、ライトパブリッシティ(1951年設立)、サンアド(1964年設立)と並んでその一翼を担いました。後に原さんは社長も務めましたが、この時期、原さんは広告制作の最前線からは一歩引いた立場にありました。
1960年、東京で「世界デザイン会議」が開催され、原さんは実行委員会副会長として主に広報活動を担当しました。同会議では、ランドスケープ、建築、インテリア、プロダクト、グラフィック、ファッションといったあらゆるデザイン領域が網羅され、戦後の文明に大きな影響を与える「デザイン」について多角的な議論が行われました。原さんは、この会議の意義を「デザインの問題やデザイナーの思想が、今後の文明において大きな責任を担うことになり、それらは地球規模で議論されるべき重要な問題を含んでいる」と述べています。配布した冊子『び <1960年世界デザイン会議日本紹介配布資料>』のアートディレクションも原さんが務めました。
竹尾洋紙店とのコラボレーションとオリンピック
1961年、58歳の原さんは竹尾洋紙店「紙のデザイン」で第7回毎日デザイン賞を受賞しました。竹尾洋紙店と特種東海製紙との共同開発である「ファインペーパー」が評価されたのです。原さんが開発したアングルカラー、パルテノン(1953年)、マーメイド(1956年)、マイカレイド(1957年)、パンドラ(1959年)、彩雲・虹、玉しき(1969年)、羊皮紙、シープスキン(1970年)などの個性的な紙は、その風合いや豊富なカラーバリエーションがあり、現在も多くのデザイナーから愛用されています。
例えば、「マーメイド」は製紙工程で特殊なフェルト(織模様)によって紙の表面に独特の風合い(フェルトマーク)を持つ機械すきのファインペーパーで、その風合いがまるで人魚(マーメイド)が住む海のさざ波を連想させることからこの名前が付けられたそうです。おしゃれなネーミングですよね。
1963年60歳の時、翌年に開催される東京オリンピックの組織委員会デザイン懇談会が創設されました。美術評論家の勝見勝さんがデザイン専門委員会委員長を務め、原さんをはじめ河野鷹思さん、亀倉雄策さん、杉浦康平さん、粟津潔さんら、戦中から戦後派のデザイナーが制作物のデザインにあたりました。原さんは広報を担当し、公式招待状や賞状、シンボルマークなどのデザインを手がけました。同年には、雑誌『太陽』の創刊と同時にアートディレクターにも就任しました。
その後も、札幌オリンピック冬季大会デザイン委員や日本デザインセンターの社長など、数々の重職を務めながら、レタリング、エディトリアル、タイポグラフィ、写真技術などのグラフィックワークに取り組み、デザイン理論と技術の向上に大きな貢献を果たしました。
ブックデザイナーとしての活動
1970年、67歳となった原さんは武蔵野美術大学の主任教授を辞任し、以降は執筆や国際交流などの文化活動に加え、ブックデザインを多く手がけるようになりました。1975年に脳血栓で倒れた後も精力的に活動を続け、多くの賞を受賞しました。
全集や百科事典の装丁においては、流行のスタイルを避け、「本は飽きないことが大切」と強調しています。原さんのブックデザインに対する取り組みは、後輩デザイナーにも大きな影響を与えました。田中一光さんは、原さんを「ブックデザインの神様」と称し、「日本のグラフィックデザインの基礎を築いた人物」と高く評価しています。
いかがでしたでしょうか? 2回にわたり、原弘さんをご紹介しました。
原さんは、印刷業を営むお家に生まれて、印刷の勉強のため学校に行き、そこから教鞭をとりつつ、グラフィックデザイナーになっていきます。そして、晩年はブックデザインをライフワークしていました。
小田原市役所の隣にある、生涯学習センターけやきの図書室に、『現代日本のブックデザイン』という本があり、その中に原さんの作品がたくさん載っていました。中でも70歳の時にデザインした『円空』のブックデザインが素晴らしかったです。機会がありましたら是非、ご覧ください!
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