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戦後小田原へ移住デザイン業界を支えた河野鷹思さん


こんにちは!
デザインこねこの長嶺きわです。

10月になりました。
今年もあと3ヶ月で終わりですね。信じられない思いです。

1年で一番過ごしやすい時期ですので、
夏の疲れを癒しながら、活動的に過ごしたいと思います。


先日、事務所の近くにある日清亭さんに初めて行き、
お昼を食べました。

日清亭さんといえば、ラーメンの他にオムライスが人気(柳沢慎吾さんもテレビ番組でオススメしていた)とのことで、
何人かの方が注文されていましたが、
私はカレーライス、夫は親子丼を注文しました。

私は最近、なぜか辛いものが突然好きになり(今まではとても苦手だったのですが)、

外食でカレーのメニューがあると、ついつい挑戦してしまいます。


たくさん煮込まれているような、濃厚なカレーでした。

量が多めでしたが美味しかったです。


絵画教室アトリエ・コネコについて

絵画教室アトリエ・コネコ
は、私の母が代表を務めており、私自身も月曜日、金曜日、日曜日に教えています。
アトリエには、4歳から99歳までの幅広い年齢層の方々が通ってくださっています。

こどもクラスでは、主に水彩画に取り組み、高学年になると油絵にも挑戦します。

おとなクラスでは、水彩画やパステル、油絵など、多様な表現技法に取り組んでいます。



母は小田原市出身で、城内小学校の頃から絵が大好きだったそうです。
高校時代には、茅ヶ崎の西野久子さんの絵画教室に通い、東京都現代美術館で斎藤義重さんの作品に感銘を受けたことがきっかけで、

斎藤さんが教授を務めていた多摩美術大学の絵画学科油画専攻に進学しました。



母は現在も画家として抽象画や仏像をモチーフにした作品を制作しており、70代の今もなお80号という大きなキャンバスに挑戦し続けています。



これまでの作品展のDMは、デザインこねこが制作してきました。
一部を以下にご紹介いたします。


第29回絵画教室アトリエ・コネコ作品展のご案内

11月20日(水)~24日(日)
に、小田原三の丸ホールにて、

絵画教室アトリエ・コネコの第29回作品展を開催いたします。

今回は、こどもクラスとおとなクラスの合同展です。

現在、DMやポスターを制作中ですので、
完成次第改めてお知らせいたします。


戦後小田原へ移住

デザイン業界を支えた

河野鷹思さん

本日は、前回ご紹介した山名文夫さんと同様、日本のグラフィックデザインの黎明期を代表するデザイナー、河野鷹思さんをご紹介します。


生い立ちから第二次世界大戦の頃まで

河野鷹思さんは、1906年に東京・神田に生まれました。東京美術学校(現・東京藝術大学)図案科在学中に、築地小劇場で舞台装置家の吉田謙吉さんに師事し、舞台装置からポスター、チラシ、チケット、衣装考証などを手がけていました。

1929年、東京美術学校を卒業後、松竹キネマ(現・松竹株式会社)に入社し、宣伝部で広告デザインを担当する傍ら、映画美術や演劇・舞踏の舞台美術、装丁、雑誌のイラストレーションなど、幅広い分野でデザイン活動を行いました。

1934年、28歳の時に名取洋之助さんが主宰する第二次日本工房に参加し、対外宣伝誌『NIPPON』の表紙デザインなどを手がけました。第二次日本工房には、山名文夫さん亀倉雄策さんも一緒に参加していました。



1936年からはフリーランスとして活動を始めました。



第二次世界大戦中の1940年から1941年にかけては、内閣情報局の管轄にあった日本写真工芸社に初代の総編集局長として参加し、『VAN』と『NDI』という対外宣伝誌のデザインを担当しました。

1941年、35歳の時には、東京・銀座で初の個展「河野鷹思風俗童画展」を開催しました。

その後、陸軍に徴用され、インドネシアのジャワ島で宣撫工作に従事しました。捕虜生活を経て、1946年に帰国し、家族が疎開していた伊豆の見高村(現・河津町)の漁村にあった旅館に戻りました。



戦後最初の仕事は、伊藤逸平主宰の風刺雑誌『VAN』の表紙デザインでした。当時、自宅の一室で作業を行っており、デザインに使える道具も少なく、子どもの勉強机に、画用紙を水張りして作業をしていたそうです。

仕事で東京に行く機会が増えたことから、通勤しやすい国府津町(現・神奈川県小田原市国府津)に引っ越しました。新しい家は、写真家の名取洋之助さんの父の別荘敷地内にあり、広いベランダや洋式トイレが完備された西洋風の造りでした。

戦後のデザインと総合デザイン事務所の設立

1947年、41歳の時に新東宝映画撮影所の契約美術監督に就任しました。その後、1951年、45歳の時には、山名文夫さんを初代委員長に、原弘さん、新井静一郎さん、亀倉雄策さんらと、日本宣伝美術会の設立にも参加しました。



1953年、47歳の時には「国際(のちに日本)デザインコミッティー」の創設委員となり、ロゴデザインを担当しました。また、1955年には、グループ展「グラフィック'55」に参加し、そこで発表したポスター「淡交」が1961年にニューヨーク近代美術館(MoMA)のパーマネントコレクションに加えられました。


その他、1950年には、小出正吾さんの児童文学『りんごの村』の装丁と挿絵国語教科書の表紙絵も手がけています。『りんごの村』は、しんじること、かんがえること、はたらくこと、たのしむこと。人間の欲や真心、自分らしさとはなにか。
戦後に生まれた心に響く物語であり、河野さんの新鮮で素晴らしいイラストレーションが魅力の作品です。



1959年53歳の時に、妻静子さんとともに総合デザイン事務所「デスカ」(designers kono associates DESKA)を設立し、グラフィック、パッケージ、ディスプレイ、広告制作、プロダクト、ブックデザインなど、さまざまな分野でアートディレクションを務めました。
当時、新聞や雑誌広告のデザインでは、モデルにお金をかける余裕がなかったため、河野さんの娘2人がモデルを務めることもあったそうです。



河野さんは、ミラノAGI展日本代表(1961年)、世界デザイン会議実行委員(1960年)、第18回オリンピック東京大会デザイン委員(1964年)、第11回冬季オリンピック札幌大会公式ポスター制作(1972年)、ポーランド国際ポスタービエンナーレ審査委員長(1968年)、日本万国博覧会日本政府館展示設計(1970年)など、幅広い分野で活躍し、日本におけるデザインの発展に大きな貢献を果たしました。また、国際的にも高い評価を得ています。

河野鷹思さんと魚

河野鷹思さんと魚に関するエピソードは、河野さんの創作活動や展示に見られます。

特に1967年には「河野鷹思のさかな展」という個展を開催しており、この展覧会は彼の作品の中でも魚をテーマにしたものです。



魚は、河野鷹思さんにとって重要なモチーフの一つであり、彼の作品の中ではしばしば登場します。

学生の頃、大判のパネルを幾百という小魚で埋めつくしたり、それをカーテンのパターンに応用したりもしたそうです。



河野さんは個展開催時の記事に以下のように書いています。



さかなの面白さはとにかく何か分別くさそうな顔をしておよいでいる姿である。ゴー・ストップの信号もないのに、ひょいと身をかわしてユーターンしたりする。時に気ぜわしそうにはしるかと思うと、ものぐさそうにポッカリと浮いたまま考えごとでもしているような目つきをする。風刺的でユーモアがあり、具象的でありながら、これほど飛躍した抽象形はあり得ない。

(中略)

今回、わたしも、自分のデザインしたさかなの試作展を開いたが、それぞれ、だれか、何処かで会った人間像をさかなにオーバーラップさせたものが多く、またその人間たちをとらえたきっかけも汚職役人や、きどった娘さんからのヒントがもとになっている。そしてこんな風にさかなにバケさせてみると、人間のくさみや根性も姿をかくし、愛すべきただの置物になってしまう。





代表作のポスター「SEHLTERED WEAKLINGS-JAPAN」も独特の風刺が効いていて、70年たった今でも新鮮です。

国立国際美術館のページ内で作品を見ることができます。
こちらから

いかがでしたでしょうか。

本日は、日本のグラフィックデザインの黎明期を代表するデザイナー、河野鷹思さんをご紹介しました。


河野さんは、小出正吾さんの児童文学『りんごの村』の装丁と挿絵や、国語教科書の表紙絵も手がけています。


戦後の日本は、第二次世界大戦の壊滅的な影響を受け、物質的にも精神的にも再建が必要な時期でした。

特に子どもたちに対しては、新しい価値観や倫理観を教育することが求められていました。

この時期、絵本や教科書は単なる教育的な道具というわけではなく、

子どもたちの心に寄り添い、未来に向かって成長するための手助けをするものとして重要な存在だったそうです。

戦前~戦後にかけては、様々な職業の方が復興に向け尽力されたと思います。

デザイン界でも沢山の方が尽力し、現代につなげていただいているのだなと、改めて思いました。

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