『シンプルな世界』八
八
帰宅すると、愛がいつものようにご飯を作って待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
やけにしっくり来るその言葉に、仁の存在を思い出していた。
「今日はなんだか嬉しそう。いいことあったの?」
和貴は「まあね」と微笑むと靴を脱いでそのまま部屋に上がった。「いいことあったんだね」と嬉しそうに言う愛の言葉に自然と口角が上がる和貴だった。
「今日の夜ご飯は青椒肉絲だよ。野菜をたっぷり食べないとね」
「うまそう!」
テーブルにつくなりすぐに箸を持って美味しそうに頬張る和貴の姿を愛は頬杖をついて嬉しそうに眺めている。
「嬉しそうだね、愛」
「あ……名前、初めて呼んでくれたね」
「そうだっけ?」
照れ隠しするようにご飯を掻き込む彼の姿に、益々愛は目を細める。
「今日は私にとってもいいことあったな」
その言葉を聞くなり、和貴は咽せた。
「大丈夫?」
慌てて愛が和貴の側に近寄るが、片手で彼女を制する。ゴホゴホと咳をしながら「問題ない」と言うと、胸の辺りを叩いて落ち着かせた。
「びっくりしたあ」
愛が胸を撫で下ろした様子で和貴の顔を覗き込む。その時、彼の中に衝動が生まれた。その衝動に突き動かされるままに、和貴は愛に口付けを落とした。目を丸くして固まる愛と、そこから動かない和貴の姿が僅かに橙色を帯びた電灯の元、重なり合っていた。和貴が唇を離しても、暫く愛は微動だにしなかった。さすがに、あまりにも動かなさすぎるため、和貴が彼女の目の前で「おーい」と手を振るとようやく彼女が瞬きをした。
「あ、ごめん。ごめんね。和貴はずっと私のこと、嫌っていると思っていたから」
「否定はしないかな。そういう時期もあった……だけど、今は違うよ。違う気がしているんだ。うまく言えないけど」
「ううん、うまく言わなくたっていい。それでいいの」
泣きそうな愛を見て、和貴は彼女の頭をくしゃりと撫でた。
「今日は本当にいい日だね」
「全くだ」
二人は同時に吹き出したのだった。
やたらと鳴り響くバイブレーションに起こされた和貴は、重たい目を擦りながらスマートウォッチを確認する。時間を見てもまだ設定したアラームよりも随分と早い。着信歴には「斉田美里」の文字がいくつも並んでいた。緊急事態かと思い、慌てて掛け直す。
「もしもし」
「和貴先輩!」
早朝にも関わらず、普段通りの元気な声に驚きつつ彼は用件を問いた。
「朝からすごい電話くれていたみたいだけど、何かあった?」
「いえ……なんだか、先輩の彼女になったというのが夢みたいだと思っていたら、急に不安になって先輩の声が聞きたくなったんですけど……ご迷惑でしたか?」
短針がまだ四と五の辺りを指している腕時計をちらりと見て、迷惑だとは思ったが、そんなことは気取られぬよう努めて明るい声を出した。
「大丈夫。そんなこと考えていたら眠れなかったんじゃない?」
「はい。すっかり睡眠不足です」
「今日はスパルタ教授の授業なのに……寝ていても起こしてあげないよ?」
「ああ、またそんな意地悪を……」
暫く和貴と話したら斉田は満足したのか、欠伸をする声が聞こえた。
「ちょっとでも寝た方がいいよ。電話、切るね?」
「はい……また、大学で」
「おやすみ」
電話を切ると、すっかり朝の六時だった。愛の起床時間は七時に設定してあるため、まだ長い睫毛は伏せられたままだ。朝日に照らされて浮かび上がる彼女の肢体はまさに和貴の理想像を具現化したそのものだった。暫くぼうっと見惚れていたが、せっかく早起きしたわけだし、と走りに行くことにした。たまに気が向くと走りに行くのが彼の習慣だった。「ちょっと走りに行ってくる」という走り書きを残すと、ランニング用の服に着替えて外に出た。夏特有の、まだ日差しは強くなく、薄らと冷たさを孕んでいるのにあと数十分もすれば熱風に変わる予感がする空気を感じていた。準備体操をして大きく深呼吸をした後、スマートウォッチのランニングアプリを起動させ走り出した。
走る時は近くの大きな公園の周囲をぐるぐると回る。そうすれば、車や自転車が通ることもなく、走ることだけに集中することができるからだ。和貴はそのコースを気に入っていた。今日もそれまでと同じようにぐるぐると走っているとぽつりまたぽつりとランナーが増えていった。中にはカップルで走っている人も見受けられた。
「現在、二十一分三十三秒。十キロメートルに到達しました。目標達成です。休憩しますか?」
走っている男性に付き添うようにして走っていた男性がそのようなアナウンスをしているのが和貴の耳にも聞こえてきた。インストラクターか何かかと思ったが、よく見ればスポーツウェアがヒューマノイド専用の服を発表しているブランドのものだった。そこで初めて付き添っていた男性が人間ではないことに気がついた。そのヒューマノイドがその男性の恋人なのか、それとも使用人なのか、和貴は判断しかねたが、彼にとってそれは些末なことだった。彼らを尻目にどんどんスピードを上げ、追い越した。暫く走ると、やがて、耳に嵌めたワイヤレスイヤホンから目標距離に到達したというアプリからのアナウンスが流れてきた。和貴は徐々にスピードを落とし、クールダウンも兼ねてゆっくりと歩きながら家に戻った。まだ七時前で愛は眠っている。汗がひどいため、シャワーを浴びた。彼がシャワーからあがると、愛が起動したところだった。
「愛、おはよう」
「おはよう、和貴」
彼女が朝食の準備をしている間に和貴は物思いに耽っていた。現状、和貴は二股ということになる。人間の恋人とヒューマノイドの恋人。どちらかに決めなければならない。最低なことをしている自覚が和貴に芽生え始めていた。鼻歌でも歌いそうなくらい機嫌が良さげな愛の姿を見ていると胸が苦しかった。彼女はまだ和貴に人間の彼女ができたことを知らない。彼女にはきっと秘密にしておいた方がいい。以前は、言う必要はないと思って黙っていた和貴だったが、今は愛を傷つけたくないという明確な意思を持って秘密にすることを決めた。
「そうか、俺の答えはもう決まっていたんだ」
「何が決まっていたの?」
「え?」
考え事をしすぎて目の前に愛がいることに気付いていなかった和貴は自分の心の声が漏れ出ていたことに気がつき、恥じた。
「なんでもない。独り言」
「そっか。はい、朝ご飯」
「ありがとう」
皿を受け取り、コーヒーを飲みながら朝食を食べる。コーヒーが入ったマグカップの底が見えると同時に和貴は自分のやるべきことがはっきりと輪郭を帯びるのを感じた。
「ご馳走様」
暫く愛と話した後、いつものように食器を流しに持っていき、その後歯を磨く。ワックスで髪を固めると、講義に必要な資料が入った鞄に手を掛ける。
「じゃあ、行ってくる」
「今日は夜、バイト頑張ってね」
「おう」
見送りに来た愛の手を名残惜しげに撫でた後、大きく息を吸い込んで彼女の手を離した。ガチャリと扉の開く音がした。
正門前で仁の姿を見つけた和貴は駆け寄り、共に教室へ向かうことになった。
「俺さ、今浮気状態なわけじゃん」
「まあな」
「で、昨日から今日にかけて色々考えていたんだ。それで、結論出した」
「ほう。どういう結論になったんだ?」
「俺、ヒューマノイドとちゃんと向き合う」
仁は宙を見たまま何も言わない。
「ふーん、そっか。お前がそういう答えを出したなら俺はそれを否定はしないよ。だけどさ、美里ちゃんはどうするのさ。彼女とも向き合わないわけにはいかないだろう」
正論が和貴の胸を刺す。覚悟していたとはいえ、人からはっきり言われるとかなり鋭いということを、身をもって痛感した瞬間だった。
「タイミングを見て切り出すつもりだよ。それが自分勝手だけど、俺の向き合い方なんだと思う」
何を、という野暮なことを聞かないのが仁の優しさだった。
「うまくいかねえなあ。世の中って。この世のすべては分解可能で、シンプルな世界なはずなのに」
「お前ほど割り切っているやつもいないよ。それか、エピクロスの読みすぎとしか言いようがない」
「まあ、俺のこの考え方がヒューマノイド恋人を受け入れられる要因の一つってことは理解しているさ。これだけヒューマノイドが普及した今でも忌避する人は一定数いるわけだし、変な目で見られることもある。多くの人の世界は複雑すぎるんだ。あえて複雑にすることで事実から目を背けているのかもしれないと思うほどには、な」
「お前がいつか死にやしないか心配になったよ」
「死んだら元素に還るだけだ」
「そういうことを言っているんじゃないんだけどな」
「そんなこと、分かっているさ」
仁の方を見ると、感情の読めない笑顔を浮かべていた。きっと、これも仁の優しさなのだと和貴は思った。
「ありがとう」
「そうそう、シンプルに行こうぜ」
仁が教室の扉を開けた。教室内の照明が眩しくて目が眩んだ。
講義に美里は現れなかった。二コマ目が始まった時に連絡が来て寝坊したとのことだった。あの時間から寝れば寝過ごすこともあるだろうなというのが和貴の感想だった。「講義のプリントは取っておいたからゆっくりおいで」という連絡をした後、仁と二人で学食を食べに食堂を目指した。ガヤガヤという喧騒の中で昼食を食べていると、美里が入ってくるのが見えた。仁が大きく手を振り上げたため、すぐに彼女は気がついたようだ。迷うことなく真っ直ぐ彼らの元を目指してきた。
「おはようございます」
「おそようだけどなあ」
仁が美里を揶揄う。
「本当だな、おそよう」
和貴も仁に乗じて美里を弄る。彼女は困ったような顔をしながらも嬉しそうだ。「そうだ」と和貴は鞄の中から先ほどもらった講義資料を彼女に渡す。
「これ、資料だよ」
「わあ、ありがとうございます。本当に、私のバカ!」
お礼を言いながらその講義資料をそっと鞄の中にしまった美里は「私も何か買ってきます」と財布を持って列に並びに行った。
「今日、言うのか?」
「そうだなあ……言えそうならバイトのシフト同じだし、帰りに切り出すかな。早ければ早いほど、傷も浅いはずだと信じて」
「そうだな……うん、きっとそれがいい。俺も罪は背負うぜ。浮気するような状況を作ったのは俺なわけだし」
「でも、その流れを読み取って、付き合うという決断を下したのは他ならぬ俺なんだから。お前は罪を背負う必要はないよ。感じている分には勝手にしてくれとは思うけどな」
最後は冗談めかして肩を竦めると、仁が「お前は正直すぎるぞ」と笑った。そのタイミングでちょうどトレーに日替わり定食を載せた斉田が戻ってきた。
「なんだか、お二方とも楽しそうですね」
そうかな、と顔を見合わせた二人だったが、また二人して吹き出した。特に面白いこともないはずだが、胸の辺りがむず痒く、笑いたい気分だったのだ。
「私を蚊帳の外にしないでくださいよ」
不満そうに唇を尖らした斉田だったが、すぐに一緒になって笑い出した。「それにしても、お二方って仲がいいですよね。どうやってお知り合いになったんです?」
「どうやって俺たち、知り合ったんだっけ?」
仁が顎先に手を当てて思案する。
「大学一年の必修の体育で組んだグループとかじゃなかった?」
「いやいや、その時点では既に知り合っていたよ」
「ああ、分かった。あれだ。ほら……入学式での会話だよ」
「あれか!思い出してきたぞ……」
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