見出し画像

『シンプルな世界』五


 大雨からちょうど一週間後、和貴のバイト先に新人がやって来た。
「本日からこちらで働くことになった斉田美里と申します。よろしくお願いいたします」
 今日は長い髪がローポニーテールで結われている。小林が隣で「もう少し高い位置で括ってくれたら頸が見えて扇状的なのに」と残念そうにしていた。仕事中に使い物にならないでくれ、と和貴は祈るばかりだった。
「そういうわけで、斉田さんの指導は同じ大学のシノーに頼むよ。斉田さん、改めて紹介するけれど、この人がシノーこと東雲くんね。東雲って言いにくいからシノーってみんな呼んでいるよ。はい、じゃあ、小林と俺で今日はホール回すぞー」
「ええ、野郎とですか」
 小林は「じゃあ、昼休憩で会おうね、美里チャン!」とウィンクをして休憩室を出て行った。
「えっと、東雲先輩、お願いします」
「あ、うん。店長も言っていたけど、東雲って言いにくいでしょ?シノーでいいよ」
「わかりました、シノー先輩」
 ニコッと笑った斉田に動悸を覚え、慌てて側にあったタイムカードを握り締めた。
「もう出退勤のことは聞いた?」
「はい!黄色いタイムカードをこの機械に入れて打刻するんですよね?」
 斉田は先程店長から受け取ったばかりの、自分の名前が印字された長方形のカードを和貴に見せた。
「まず出勤したら打刻すること。でも、シフト予定時刻より十五分前よりも早く打刻しちゃダメなんだ。給料が十五分置きに変わってくるから、早く入ると働いてないのに働いていることになる時間が増えるからね」
「はい」
 斉田は小さなメモパッドに一生懸命書き込みながら、和貴の指南を真剣に受けていた。
「で、ここがクリーニング済みの前掛け。ホール出る前はここから前掛けをとって着用してから行く感じ。ここまで大丈夫?」
「大丈夫です!」
 斉田は飲み込みが早く、教える和貴としても全く苦ではなかった。しかし、教えながら作業をするとなるとなかなか時間がかかる。気づけば昼休憩の時間だった。
「じゃあ、そろそろ斉田さんは小林先輩と一緒に昼休憩だから、キッチン行って賄い頼もうか」
 和貴は斉田を伴ってキッチンへ向かうと先週の閑古鳥はどこへやら、店内は大盛況だった。斉田に賄いの頼み方を教えると、ちょうど小林が賄いを持って休憩室へ向かうところだった。
「美里チャンの初ランチ、ゲット!」
「良かったですね」
「なになに、嫉妬?」
「そんなんじゃないです」
「まあ、そっか。お前はそうだよなあ。あんな美里チャンそっくりの美人ヒューマノイド買っていたら、生身の人間なんて要らないよな」
 「じゃあ、俺はお先」とそのまま去っていった。和貴がぼんやりとその方向を見ていると、斉田も賄いを持ってやって来た。
「シノー先輩はご飯、食べないんですか?」
「俺は小林先輩の休憩時間、働かないといけないから。俺までいなくなったらホール、店長しかいなくなるし」
 笑顔で接客している店長の方を見ると、斉田が罰の悪そうな顔をした。
「私が新人だから、皆さん、大変なんですよね。すみません」
「謝ることじゃないよ。俺だって、働き始めたばかりの頃はこうやって小林先輩に教わったわけだし。みんなが通る道だよ。さ、ご飯が冷めないうちに食べといで。小林先輩もいい先輩だから、仲良くご飯食べてくるといいよ」
「わかりました!休憩いただきます!」
 斉田は元気よく休憩室の方へと去っていった。

 和貴が賄いを持って休憩室へ向かうと、廊下の方まで響き渡るくらい楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「お疲れ様です」
 入室時の呪文を唱えると、皆も同じように返す。あたかも仲間であることを確かめ合う隠語のようだと和貴は常々感じていた。
「盛り上がっていますね」
「俺たち、同じドラマが好きでさ、名シーン振り返っていたんだよ」
「はあ、なんのドラマですか」
「これなんだけどさ……って、シノーが来たってことは俺の休憩終わりってことじゃん。あれ、美里チャンはどうすんの?」
「これから店長にメニューについて教わります」
「あーそっか。キッチン、シノーできないもんな。俺なら教えてあげられるよ?」
「あはは、ではまたの機会にでも」
 傷つけないように断る斉田に感心しながら、和貴は「先輩、早く戻った方がいいですよ。まだホール忙しいんです」と声を掛ける。「嘘?」と店内の様子が映るモニターを確認した小林は慌ただしく休憩室を出ていった。斉田もペコリと和貴にお辞儀をすると、食べ終わった皿を持って閉まりかけていた扉を擦り抜けてホールへと戻っていった。

 夜シフトに入る人たちに挨拶をする斉田を待ってから、共に退勤の打刻を押し、従業員出入口に向かう。後ろから駆けてくる足音が聞こえるな、と二人が振り返るとそこには小林がいた。
「二人して俺を置いて帰るなんて失礼しちゃう」
「その言い方やめてもらっていいですか」
「なんだよー冷たいなあ。ね?美里チャン」
 ふふふ、と困ったように斉田は曖昧に微笑んだ。
「そうだ、美里チャンはどうやってここまで来ているの?地下鉄?バス?」
「あ、私はバスで」
「なんだ、そっかー。俺もバスで帰ろうかな」
「先輩、今日はバーだって」
「ああ、クソ!!なんでバスではバーには行けないんだ!」
 小林が頭を抱え込んでいるのを見て二人で笑っていると「ということは」と何かに気づいたようにまた顔が青くなった。
「美里チャンはシノーと一緒の方向に帰っていくってこと?ダメだよ、そんなの!狼にのこのことついていく赤ずきんちゃんじゃあるまいし!」
 どっちが狼なんだ、と心の中で突っ込みつつも「女の子一人で帰すわけにはいかないじゃないですか」と言うと小林はぐうの音も出ないようだった。「いいか、絶対手を出すなよ?絶対だぞ!」と執拗に念を押され、和貴が頷くと二人は小林と別れた。
「あの、今日は色々とありがとうございました」
 前を向いたまま斉田が言う。
「いえいえ。こっちこそ久々に基礎を見直すいい機会になったよ」
「……シノー先輩って何学部なんですか?」
「俺?俺は経済だよ」
「あ、一緒ですね」
「国際経済のゼミ入ったけど、結構厳しいんだよなあ。あの教授。もうゼミの説明会とかあった?」
「今週あるみたいです。テスト週間に入る前に」
「ああ、そっか。もうすぐテストか……」
 他愛もない会話をしているとあっという間にバス停に着いた。
「あ、二分後に来るみたいです。私のバス」
「そっか。じゃあ、ここでお別れだね。今日はお疲れ様」
「お疲れ様でした」
 和貴が手を振って踵を返した途端、背中を引っ張られた。振り向くと斉田が俯いていた。
「どうした?具合でも悪いの?」
 心配して和貴が斉田の顔を覗き込もうとすると、意を決した斉田が顔を急に上げた。
「……先輩の連絡先、教えてもらってもいいですか?」
 緊張した声色の彼女の声に和貴もどことなく緊張を覚える。
「……いいよ」
 和貴はスマートウォッチを腕前に出すと、自分のアカウントを表示した。
「これで読み取れる?」
 斉田は小さく頷くとスマートウォッチを和貴のデバイス上に翳して彼のアカウントを読み取った。
「アカウント名、東雲和貴で合っていますか?」
「うん。……あ、登録申請来た。斉田美里ちゃんね」
「バイトの他にも、その、大学のことで相談とかあったら連絡してもいいですか?」
「え?ああ、うん。いいよ」
「ありがとうございます!」
 ぱあっと顔を輝かせてお礼を言っている斉田の背後からバスがやって来るのが見えた。
「斉田さん、バス、来たみたいだよ」
「あ、本当だ。結局引き止めてしまいました。わざわざ送っていただき、ありがとうございました!では、また……」
 バスの扉が開き、乗り込んだ斉田は窓ガラス越しに和貴に手を振った。彼も手を振り返し、バスが去っていくのを見送った。
「参ったなあ」
 彼の小さい独り言はすぐにクラクションの音で掻き消された。




気負うことない、空気のような場所であってほしい。 記事に共感していただけたら、 サポートしていただけると幸いです。