「企画書」読書メモ13
Ⅱ.
「医の調子」
情報権力者
(ともだちの先輩の言によると、もうひとつ、法律家もそうだ。今どき司法試験に受かる奴は、よっぽど頭脳構造が普通の人と違う人かがむしゃらに勉強した人なわけで、ちゃらんぽらんな学生生活を送った人はなれない。しかし、実際に刑事問題にまで行ってしまう事態とは、この世の中の、いっとうドロドロした人間関係の部分であって、そういう問題を、世の中のリアルな動きに触れなかった東大一直線が判断するというのは、考えてみればムチャクチャな話だ)。(p.147)
私は、「進学校」という概念・存在が、色々な意味で差別的な代物だと捉えている人間だ。なぜ、偏差値が高い人間の進路を、大人たちに勝手に「進学」などと指図されなくてはいけないのか?偏差値の高い人間は、なぜ偏差値の高い人間だけの集団に集められ、無意味な優越感を育て上げてしまい、偏差値格差による人間同士の断絶の関係性を構築する仕組みを作ってしまうのか?頭の良い人間こそ、様々な偏差値・能力の人間の混在する複雑な人間の関係性の中に放り込まれ、学校のお勉強だけでなく地頭を鍛える経験を積むべきではないのか?その経験が、結局、社会を連続的な豊かなものにしていくのではないか?「進学校」は非常に良いものとして未だに崇め奉られているような風潮が残っているけど、実は社会的害悪の元凶となっているのではないかと思う。もちろん、進学校出身者を責め立てるために言ってるわけじゃないけど。俯瞰的に捉えた時に、「進学校」という社会装置は、大失敗してはいないか?ということは、もっと議論されてもよいのではないかと思う。
誰が医者やねん! ロックンロール
むしろ、社会的医療ということが、本当の政治家の仕事じゃないのかと思ったりして。(p.149)
その後、例えとして公害の話が出てくる。現代社会に蔓延している様々な社会病理にいかにアプローチし解決に導いていくか?その手立てを考えていくことが政治家の仕事、ということか・・・。非常に難しいけど、コミュニケーション・人間関係の関係性の質をいかに高めていくか?ということが、鍵を握っているのかな。
「社会的な医」というのが、あなたのまわりの医学生に伝わらないのは、みんな、個人に対する対症療法=近代<個人>医学の発想に染まりきっているからだと思う。(p.149)
社会病理とか、同調圧力とか、個人という点でしか見ていない姿勢では解決できないお化けのような病気は蔓延している。対症療法ではなく、根本治療のアプローチを考えていかなくてはいけないのだろうな。
「宗教の問題」
イターナウ
宗教は「個人がどう生きるか?」を追求し、政治は「社会がどうあるべきか?」を追求した。誤ちは、それぞれに追求した、という点だ。個人(自分)が変わっていくということと、社会が変わっていくということは別のことではありえない。(p.150)
すべては地続きだ。そのことを忘れてはいけないし、そのことを忘れて生きている人間に社会を解決する力は無いということは言い切れるだろう。そういう人は、肝心なことを他人や社会のせいにする、という思考で停止するから。自分の責任というところが空洞になっていて空回りしつづけるだけだから。
神様は個人主義者
独裁体制宗教団体から急進的無神論者の群まで、街には盲目の目玉たちがゴロゴロしている。(p.152)
結構、意識的・自覚的にならない限り、人間というものは、空っぽの自己存在に耐え切れずに、何か一見強そうな人や、強そうな刺激的な思想に自分の身を委ねてしまいがちだ。なんだかんだいっても、誰かからきちんと愛されたとか、そこから生まれる感謝の気持ちであるとか、そういったことが、強い人間へや強い思想に盲目に身を投げてしまわないための重しになるような気がしている。
宗教屋の役目
宗教とビジネスは、本来なら成立しない。なぜなら、宗教は人を信じるところからはじまったものだが、貨幣とは人を信じないというところからはじまったものだからだ。(p.156)
現代社会は、「ひとを信じることと」と「ひとを信じないこと」の両方のバランスをとれる人が生き残れる仕組みとなっているということなのかな・・・。