存在discovery!★有料エッセイバージョン★
おはようございます。
(注釈)こちらの記事は、途中まで、
直前の投稿とほぼ同じ内容で
(章立てになっているなど違うところもありますが)、
途中から有料記事となって変化します。
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3月のエッセイが、実はまだ書けていませんでした。
遅くなってしまって申し訳ありません!
4月も後半に入ってしまいましたね。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
4月を振り返ると、
近所の少年団の女子小学生チームの活動が年度始まりだったり、
ジョガボーラきららさいたまという団体活動を始動させ、
それに伴い、いろいろなことを学んだり、
仕事の勤務時間を調整して、
ひとつひとつの活動を丁寧に、集中してやれるように工夫したり、
まだ4月は終わっていませんが、
お蔭さまで、充実した1か月を過ごせています。
実際に、いろいろな行動を始めたからこそ、
初めて知ること等も沢山あり、
やはり「やってみないとわからない」という言葉は、
本当にその通りだなと思います。
1.女子サッカーへの注目
今年は、女子サッカーのワールドカップイヤー。
7月にあります。
それに向けて、ということではないですが、
1冊、気になっている本があります。
私は、同じnoteで「女子サッカーに耳をすまして」というサイトを運営しており、この本は、必読本の予感がしています。
2.コミュニケーション形態
まだ本を読ませていただいていないですが、丹念な取材・調査によって練り上げられた本なのではないか、ということを予感させます。「女子サッカーに耳をすまして」(通称耳すま)でも、取材などを行わせてもらうことがありますが、「インタビューする対象」「インタビュアー」という対面的な関係性によって、改めて浮き彫りとなり、取材することができる話がある反面、もしかしたら、対面的ではない、並列的・フラットな自然体な会話の中から萌芽するコミュニケーションの在り方もあるかもしれません。そのヒントとなるような話が、トイビトさんのサイト記事の中にありました。
コミュニケーションとは、「言葉の交わしあい」が全てではないと思っています。むしろ、「言葉の交わしあい」は、コミュニケーションの一部です。存在と存在がそこにあり、それぞれの、お互いの、「生きる」が交錯するプロセス、それはきっと、すべて、「コミュニケーション」と言ってよいと思います。そして、そういう自然体な過程の中だからこそ萌芽するものもきっとあるはず。そんなことを思いました。
3.コミュニケーション・場づくりとしての、ジョガボーラ・ウォーキングフットボール
たとえば、サッカーだって、コミュニケーション形態のひとつとして捉えることだってできます。4月から立ち上げた活動「ジョガボーラ」「ウォーキングフットボール」などは、サッカー以上に、双方向のコミュニケーション要素が強いといえるかもしれません。指導者がいて、選手がいる、という関係性ではなく、「全員が参加者」という在り方が、「ジョガボーラ」「ウォーキングフットボール」の特徴だからです。
4月17日(月)18時半~、日本サッカー協会主催のオンラインウォーキングフットボールルール説明会に参加してきましたが、ウォーキングフットボールには、「ピッチマネジャー」(楽しく場を進めていく為の進行役、ファシリテーター)がいることになっていて、審判のようなことをすることもありますが、日本のウォーキングフットボールの基本は、「セルフジャッジ」であるというお話もありました。ひとりひとりが、ズルをしないで、自己申告で、みんなが楽しく場をつくっていく当事者として参加していく、それが日本におけるウォーキングフットボールの醍醐味なんだということを感じました。また、「ボール保持者からボールを奪ってはいけない」とか「6秒以上ボールを保持してはいけない」といった日本独自ルールもあります。その根底には、「相手にプレーさせましょう」「みんながボールを触れるようにしましょう」という精神があるようです。ウォーキングフットボールは、誰でも気軽に参加できるので、チームビルディングやコミュニティづくりのきっかけツールとして、非常に大きな力になる可能性を秘めたスポーツなのではないでしょうか。
4.場づくりを通して当事者意識を育む
場づくりを通じて、当事者意識を育む。このことは本当に大切なことのような気がしていて、こうして書いていく中でも、さらに気持ちは強くなってきています。同じ場所・空間を共有している人と人が協力し合って、素晴らしい場をつくる。このことは、まちづくり・地域コミュニティづくりにつながっていくし、積み重なっていけば、広く日本社会の空気感を醸成することにもつながっていくと思います。
このことに関連して、Facebookで、非常に分かりやすくて印象的な発信をされている方がいたので、抜粋させていただきます。
私自身がそうなのですが、いつの間にか自分が「お客様(=常に誰かが何かをしてくれることが当たり前ととらえてしまう存在)」であるかのような意識が醸成されていて、当事者意識をしっかりと育ててこなかったような気がしています。お客様(=社会の出来事を、自分とは無関係の他人事としてとらえる)であれば、一見、ラクかもしれません。しかし、社会の中に、自分という存在が遊離している状況が作られ、生きている手ごたえを感じることは、できないことになるでしょう。子供のころから、「生きている手ごたえがない、手ごたえがほしい」と思いながら、私は、モヤモヤしたり、文章を書いたり、なにか新しい活動を始めたり、試行錯誤してきました。きっと、まだまだ、まーだまーだ、私は、社会の中で、「お客様意識」の強い人間です。社会の出来事を、自分と無関係の他人事のようにとらえてしまっている感覚が、育ってきてしまっています。それに抗う気持ちもあります。本当はアラフォーでまだそんな意識、というのは遅いと思いますが、それでも毎日のちょっとしたことから、当事者意識をもって、生きる手ごたえを感じることのできる人間に変わっていけるよう、日々、努力したいと思っています。
5.当事者意識を育てる方法
どうしたら、「当事者意識」って育っていくんでしょうね。やっぱり、「生きててよかった」とか、「この社会がこれから先も続いていってほしい」「出会えた人と、これからも一緒に生きていきたい」という気持ちが土台にないと、育ちようがないですよね。
「生まれてこなければよかった」「こんな社会、なくなればいいのに!」「誰とも関わりたくない」・・・etc.そんな気持ちがある状態で、当事者意識など、育つわけがないですよね。だから、やっぱり素晴らしい人生経験とか、素晴らしい場に遭遇するとか、コミュニケーションすることの楽しさ・面白さを味わうとか、そういうことの積み重ねからしか、「当事者意識」を育てることって不可能なことのような気がしています。
「当事者意識をもて!」と説教しても、生きることや、自己・他者・社会に対して、「どうでもいい」「なくなったってかまわない」と思っている人には、絶対響くことはないのでしょう。
生きるって素晴らしい!人間って素晴らしい!社会って素晴らしい!そう感じられる瞬間を、どうにかして作っていくこと以外に、当事者意識を育てる方法って、ないのかもしれないですね。
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