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「企業的な社会、セラピー的な社会」読書メモ

2010年に、長い活動休止からのカムバックを果たした小沢健二。2012年には渋谷パルコで写真展のようなイベント(「我ら、時」)が開催され、私も足を運んだ。その時に手に入れた「企業的な社会、セラピー的な社会」(小沢健二著、ドアノック・ミュージック、2012)、しっかり読めていなかったが、2022年2月現在、ようやく読み始めることにした。

生活を、自然を、ばらばらにする力

ある家庭での生活が、料理はコックさん、掃除は家政婦さん、子守りはベビーシッター、悩みの相談はカウンセラーという風に、ばらばらに分断されてゆくと、その国は「経済成長」したことになるらしいのです。(p.5)
つまり「経済学」は、「人の暮らしがばらばらになって、家庭で行われることが専門化されてゆくと、それは「成長」である」と考えているらしいのです。(p.5)

「専門処理システム」という言葉を大学の時に頻繁に聴いた。ちなみに私は経済大学出身だ。あまり経済について深く考えたことがないし、この本を読んでいくと、どうやら深く考えようのないものが経済の正体だったりするような気さえしてくるのだが、とにもかくにも、私は事実として経済大学に入学し、卒業している。専門処理システムが進むとバラバラになるから、コミュニティが大事になってくる、というような視点で大学では学んでいた。「経済成長」という言葉は、なんだか空疎な言葉なんだなというのが率直な感想。

「自然に与えたダメージをお金に計算する」という考え方自体が、とんでもないようでした。(p.6)
川に値段をつける。空に値段をつける。そんな決められるはずのない値段を勝手に決めて、平然と信じこんで突き進んで行く態度は、宗教的というか、「真宗教的」という感じです。(p.6)

いわゆる「外部経済」の話。たしかに、値段などつけられるわけがない。数字ですべてが解決できると私たちは思いすぎているのかな。

紙人形たちの風景

きららは、「経済学部に行きたい」と言う学友たちに、何というか、「物ごとを平たんに見る」「人を、紙を切り抜いて作った人形のようにペラペラなものとして見る」ような匂いを感じていました。(p.7)

数字で人間をみればみるほど、人間はペラペラの存在感になっていく。どうしたものか。

車はどこへ行く?

空気は、国境などなく、つながっています。銅山の国で空気を汚そうが、絵本の国で空気を汚そうが、この星の空気が汚れることは同じです。(p.9)
ピカピカの新しい車体を作るには、大量の環境汚染が必要です。(p.9)
「灰色は、人びとに本当のことを考えさせないように、世の中を『イメージ』で埋めつくしているからね。買う人たちだって、本当のことを考えることが許されていたら、『車に乗らないようにしよう』とか『これ以上世の中に、車を増やさないために、もう車を買うのはやめよう』とか『自転車に乗ろう。それか、馬に乗ってみるのはどうだろう』とか、思うかもしれない。」(p.9)

印象操作で本当のことを考えさせないように、色々と仕組まれて現代社会を生きているんだな。誰がということではないけど、なんだか色々な人の利害の中で「灰色」は醸成されているようだ。

もう古いの計画/また一台、車が増える

「もう古いの計画」(p.9-10)

スマホの新機種が次々と現れるなんてのもその典型か。「もう古い」「オワコン」、そうやってどんどん価値は新しいものにあるように錯覚させられて生き急がされているのが現代人の生き様のようである。個人的には、「コンテンツ」という言葉自体が好きじゃないんだけど。それこそ、深み有るものを、ペラペラのものみたいに取り扱っている、耐えがたい軽薄さを感じ取ってしまう。

新聞てのは、どこまでが記事で、どこからが広告なのか、よくわからん。(p.11)
「大きな車会社一社の年間収益ってのは、たとえばニュージーランド国の『国内総生産』よりも大きい。そんな巨大な企業たちが相談して、『新しい車を売るには、どんな国際条約を結んだらいいか』と考えて、国際条約まで広告の一部として使ってるって言ったら、UFOを信じている人みたいに思われるだろうか?結構、当たってるんじゃなかろうか?」(p.11)

新聞、メディア、広告、お金。そうやって情報は作られ、編集されて行ってしまうんだな。メディア人の端くれとして、これは自覚的にならないとだな。

不思議な「専門家」たち/気がつかれては困ること

「キリスト教とイスラム教の対立の時代って言葉も、現実と関係ないよね。」(p.12-13)
不思議なのは、その基地帝国がイスラム教徒が多い国を爆撃したり、イスラム教徒がやりかえしたりすると、「あれは宗教どうしの、太古の昔にさかのぼる、血塗られた対立のせいだ」と真顔で話す「専門家」たちが、続々とテレ・ヴィジョンに現れることでした。(p.13)
現実には、イスラム教の中でも特に真理教的なワハービ派の政府が支配するサウジアラビア国やパキスタン国は、キリスト教の中でも特に真理教的な基地帝国と、大の仲良しです。(p.13)
イスラエル国は、基地帝国の出張所のような国で、基地帝国の巨額の軍事援助金がなくては、まわりの国々に袋叩きにされてしまうような国です。(p.13-14)
基地帝国の指導者たちは、同じキリスト教の尾長鳥の国が大嫌いです。基地帝国で最も有名なキリスト教の指導者が、テレ・ヴィジョンから「尾長鳥の国の大統領など暗殺するべきだ」と人びとに語りかけるほどです。(p.14)
キリスト教の国とイスラム教の国が争うと「原因は宗教」、キリスト教の国どうしが争うと「原因は宗教ではなくて、政治か何か」という説明がでたらめなのは、わかりそうなものでした。(p.15)
どうやら、現実の社会では、争いや戦争の原因は、宗教のような「よくわからないもの」ではなくて、お金とか、政策とか、石油の流れのコントロールとか、水源地の奪いあいとか、とても「具体的なもの」のようでした。(p.15)
けれども、「現実に根ざした、具体的なものが問題を生んでいる」となると、「その具体的なものは、なんだろう?」と、人びとは考えはじめてしまいます。(p.15)
そうなっては、困るのです。(p.15)
灰色は、人ではありません。(p.17)

具体的に物事を考えていくこと。このことを疎かにしてきている現代人。私もその一人だ。わあ。私も思いっきり灰色だなあ。今からでも、具体的に物事を考えていく訓練を、少しずつ、やっていかないとだなあ。

しつけられた人びと

「新聞」がそういう風に人びとをしつける理由。それもまた、具体的なことでした。新聞社に出資しているのはどんな銀行や、企業や、出資者たちか。新聞社のお金は、どういう風に回っているのか。そういう現実に根ざした、具体的なことが、「新聞」や「雑誌」を生み出しているのです。(p.17)
サーカスの動物のようにしつけられてしまった、「豊かな」国々の人びと。彼らの心に叩きこまれてしまった、現実とは何の関係もない「普通の感覚」。(p.17)

「普通の感覚」=「灰色」と言ってもいいのだろうな。具体的なことを考えようとすること、見ようとすること、そういう姿勢を育てていかないとだな。

怖い老人

問題を「よくわからないもの」のせいにすること。(p.17)

騙されてるな。騙されてきたな。ちゃんと、素朴に、具体的に、考えていかねば。

「優秀な一人と百万人の盲人」(p.19)

・・・という虚構。1人1人の中に豊かさも優秀さもある。そして誰もが愚かでもある。お互い様だ。二項対立的に棲み分けられるわけがない。すべての人間のもっている力を、もっと信じないとだな。


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