「企画書」読書メモ19
Ⅱ.
「仕事心得」
職業は選択できない
こないだテレビでアマチュア・ロックなんとかをやっていたけど、笑っちゃうよな。とにかく、やる側に「ロックとはこういうもの」「パンクとはこういうもの」「ハードロックとはこうやるもの」・・・・・・という規則があらかじめあって、その枠に一生懸命、自分を押しこめようとしているだけなのだ。(p.206)
「反抗とはこういうもの」「苦しみとはこういうもの」「雑誌とはこういうもの」「橘川幸夫とはこういうもの」(p.206)
私自身、「ロックはカッコいい」とか例えば「小室サウンドがカッコいい」とか、もうとにかくそういう時代の空気が非常に苦手だった。苦手だったけど、そこに溶け込めない自分は格好悪いのかな、などと悩んだりしたこともあった。いわゆるロックミュージシャンみたいな風体がロックなわけじゃないんだよなーきっとロックの本質は!世間で流行っている「いわゆるロック」ってなんか自分に合わないな!と強く思ってる自分、そんな自分を信じることもまた、ロックなのかもしれない!
ぼくはカラにはなりたくない。中味になりたい。(p.207)
なりたくはないけど、嫌い過ぎても生きづらくなるのがカラという状態。中味になりたい、かあ。
編集者という肩書はカラなんですよ。(p.207)
まず自分のやりたいことがあって、それを実現するために編集知識を学んだり編集者になったりルポライターになったりするんならいいんだけど、編集者になってそれから自分のやりたいことを探すようだと、きっとツブレますよ。(p.207)
やりたいこと!魂!志!そういうものをまずみつけることが大事ってことかな。入れ物(=肩書)はその後考えること。
デザインということ
すべての事象は生きている・・・・・・と。システムもコトバもジョーホーも、そして茶わんとかビンとかいう物質も生きてるものと考える。この時代を呼吸してると考える。デザインとは、生きた物質(その他)とつきあうことだ、と。作品というのは、どのよう秀れたものであれ、死体である、と。芸術とは終わったものであり、デザインとは(つねに)はじまるものだ、と。(p.209)
デザインは生きている、時代と呼吸している、そして作品は、芸術は、死んでいる、かあ。令和になった今はデザインデザインとどこでも聴こえる時代になって食傷気味だけどね。
視覚的なものにこだわる理由はなくなる。見えないものをデザインする、ことだってありうるわけだ。例えば、人間の生き方をデザインするデザイナーとか、商売のシステムをデザインする、とか。(p.209)
見えないものをデザインする、みたいなことは、かなり今流行ってますね。
ジョーホーっつうのは生きてるのです。ジョーホーっつうのは伝達されながら成長するんです。(p.209)
あなたが絵を描くとして、それがぼくの視覚に入ったとき、あなたが絵を描いた時の気持ちが、ぼくの中で成長しなきゃ、ウソだ。そのまま移行しても意味がない。社会を活性化する、というのはこういうことでありましょう。(p.209)
例えば「美術の鑑賞方法」とか「美術の楽しみ方」みたいな、一見親切な講座みたいなものは、現代社会に氾濫してるけど、ある意味、自分個人としてどう感じているのか、考えているのか、というところから逃げてしまうことになりかねない。ジョーホーは生きている、成長する、このことについてはもっともっと深めて考えていきたいな。
ファッションについて
人間は他の動物と違って<コトバ>を獲得したのですが、衣とは一種のコトバだったのではないでしょうか。太古から、衣は確かにヒエラルキーを表現してきたはず。かつてはタテの階級を表現し、今はもしかしたら、個性という名のヨコのヒエラルキーを表現しているのかもしれない。(p.210)
1984年生まれの私は、「個性」「個性」と言われながら育った世代で、「個性」という言葉はちょっと食傷気味だった。そんな私に「個性という名のヨコのヒエラルキー」という言葉はグサッと刺さった。縦ではない分、わかりづらいけど、個性という名のヒエラルキー、うん、確かにあるな、と。もやもやと捉えづらかった何かを言語化してもらったような気分の文章だった。
ひとりで大きなことやろうとするからなんにもできなくなっちゃうわけで、自分は、大きなことやろうとしているうちのひとりだ、というふうに発想を変えてください。(p.211)
なるほど。これも刺さった。ああ、自分は一人でなんでもやろうとしてきたなあ。大きな勘違いだった。
パン屋さんでも施盤工でも、大事なことは、機械やシステムを使っていかに自分がパフォーマンスするか、ということだ。(p.211)
すべてはコミュニケーションの道具だと!
「アイデアを現実に定着させるためにはね、自分で一番最高のアイデアだと感じたその次の瞬間にね、これは実はくだらんアイデアだと思ってみることだ。これができるのは相当強い人でないとだめだな。今のアイデアマンはみんな弱いから、自分が面白がってるうちにさっさとやっちゃおう、とするから、自己満足で終わってしまうのだ。自分を確かめることができない臆病ものなんだ」(p.212)
なるほど。有頂天になって自己満足していること、多いかもしれない。ツッコミを入れて生きていくことをもっと意識していこう!
おやつ&お菓子のこれから(先進国モデル)
■メディアとしての菓子→バレンタインデーにおける<菓子>=意味の代行。ハガキ・チョコレート。(p.214)
バレンタインのチョコレートは意味の代行か。メディアか。そういう見方があったのか。