ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑭

「宮本留吉」エレジー


 或るクラブ・メーカーの番頭さんから聞いた話である。過日或るゴルフ場で行われたプロの月例会が終って、帰途につこうとしてロビーを通ると宮本留吉老が一人ぽつねんとしてソファーに腰かけているので、どうされたのですかと訊くと、五時とかにならないと出ないという駅行きのクラブ・バスを待っているのだとのことだったので、私の自動車に御同乗ねがって、お家までお送りしました、とのことであった。

 つまり、当日の参加者六十何人かのうち、なんらかの意味で「自分の自動車」で来て居ないのは宮本老一人だったというわけなのである。勿論、それはそれで結構なことで宮本老もプロの生活水準がそこまで上ったということを、恐らくは喜んでいたことであろうが、ただ不満に堪えない。その幾十人かの中に、自分の車を持たぬ此の大先輩にサービスしようという精神の持主が、ただの一人だにもなかったことである…。

 私は、ここに前々から考えていた此の人の運命について述べてみたい。
 ズバリいって、戦後、仕事と住居を関東に移したことが、この人の悲劇だったと思う。
 思うべし、もし、氏が今、関西に居たとしたら、日本プロゴルフ界の地図は今日のそれとは異ったものになっていたのではあるまいか。少なくとも関東は関西に対して(好むと好まざるとにかかわらず、この二者の対立は日本ゴルフ界の宿命でもあり、現実でもある)今日のような優位に立つことは出来なかったであろうと思われる。

 その関西プロ・ゴルフ界のシンボルともいうべき此の人が、如何に戦後の激動(ドラム・エンド・シュトロング)の時とはいえ、故郷を捨てて東京に来たということは、なんということであったか。
 故人に鞭打つわけではないが、この意味で、彼を東京に呼んだ主謀者原田盛治君は、なんと思慮のないことをしたものか ーーといって、最後の責任はその誘いに乗った、宮本氏自身にあったことはいうまでもないが、もし原田君の勧誘がなかったら、こういうことは起らなかったのではあるまいか。

 樹木でも、その実生した所になければ真の生成は期しがたいと聞く。特にその樹が大きければ大きいほど、移植による損傷は大きく、ときには枯れてしまうことさえある…。
 「宮本留吉」という、この日本プロ・ゴルフ界最大の巨木は生れ故郷の関西から、武蔵野のただ中に移し植えられて、果たしてどんなことになっただろうか。敢えて枯死したとは、私はいわない。然り、東京に来てからの老の歩いた道は決してバラの花の敷きつめられたものではなかった。

 否、否。率直にいって、それは昔の老を知る私などにとつては、むしろ目をそむけたくなるようなものだったといっていい。
 今、老は日本プロ・ゴルフ協会の顧問とかだときくが、結局は半ば儀礼的存在にすぎないのではないだろうか。
 そして、六〇歳を越した今、小さな作業場の片隅でコツコツとクラブを作っている彼、街の名もなき練習場でビキナーを教えている彼、時には月例で彼の過去の栄光など知りもせず、知ろうともしない無礼な若者達と一緒にプレーしている彼を見ると本当に胸の中が熱くなるのである。

 まこと人生幾度か進退を誤ることは致し方もない。どうであろうか、今からでもわが「留さん」は関西に返っては……ああ然り、一度外の地に移し植えられた巨木は、生れ故郷の土壌もこれを享け納れようとはしないものなのであろうか。
 それはともあれ、かくもあれ、もし、いつの日か日本に「ゴルフ殿堂」が出来たとしたら間違いなく、第一号のプロとしてそこに入るであろう此の大プロを日本のゴルフ界はもっと大切にすべきではあるまいか。

 ゴルフのトーナメントを見にゆくと、いつでも不思議に思うのは、世話人だか役員だか知らないが、偉そうな顔をしたお年寄が大きな造花をつけているのに、選手の方はロクに読めもしないような名前を書いた小さなリボンを尻のあたりにぶらさげているだけだ。
 お断りしておくが、我々が見にゆくのは役員なんかではなくて、選手だということである。しかも、その選手の一人々々が誰であるかということが分ってこそ観戦の興味は倍加する筈である。

 是非望みたいことは少なくともプロのトーナメントに於いては、背中に大きな番号をつけてもらいたいということである。それには勿論、その番号と名前を引き合せるリストをつくらなければならず、多少の手間と金とがかかるであろうけれどそれ位のサービスをしなければ「見せるゴルフ」が泣くというものであるまいか。
 アメリカの悪いところばかり真似せずに、少しはいいところも真似してもらいたいものである。

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