自主性ほどあてにならないものはない
自主的に何かをする。活動をする。仕事をする。
社会貢献をする。おおよそ人間がすることで、自主的にする行為は、清々しいし、格好も良い。そして、自然とそういう人たちは、周囲から信頼される。
自主的、自主性と近い言葉として、自立するがある。
例えば、高齢化社会の中で、シニアが幸せに楽しく暮らすときの秘訣の一つ。それは自立だ。
ここでいう自立は、経済的にも精神的にも社会的にも自立するという意味では決してない。そんな完璧な人はいない。私の感覚では、まずは精神的に自立する。依存心を減らす。その上で、シニアとしての自分に出来ること、どうしてもできないことの区分を明確にして、自分が出来ること、自分がしたいことは自主的にする。こんなイメージかと思う。
次に子供の自主性を考えてみる。
子供の自立という表現はあまりお目にかからない。当たり前の話だが、少なくとも18歳の成人までは自立する必要はないと考えても間違いはない。もちろん、例外はあるし、少なくとも成人前には自立の準備はした方が良いが・・。
私は子供の頃から、引っ込み思案で、人見知りが激しかった。個人的な趣味や遊び以外の学校での生活では、全く自主的ではなかった。
一方で、遊びは超自主的。自然の中で自分がしたいことだけをしてきた。
今の自分は、周りからは超自然児であると思われている。大人になってから身についたものも無くはないが、私の感覚では、子供の頃に自然の中で身についたものかと思っている。
人との関係性の中で自主的に動くというのは、会社を創めた後から身についたと思う。その根底には自己責任と言うものがある。創業して以来、何か経営事で身内にぼやこうものなら、間髪入れずに、自業自得でしょ。自分が好きにしているんだから。こんな言葉が異口同音に返ってくる。
もちろん、これは経営の仕事だけとは限らず、個人で何かを極める仕事や一流のビジネスパーソンにも共有することだと思う。
そんな訳で、今の世の中、自主性を推奨する話が多い。いや、多すぎる。
自主性の本質は、やはり自己責任であろう。
組織に属して活動するとき、権利を主張する前に義務を果たせ。これは超当たり前であるが、これすらできない人も意外と多い。これは国民の義務を果たすという意味でもそうだ。
そもそも、人の集まりでは、何かの決まりや規律が必要である。和と言う意味だけでなく。義務を果たさず権利の主張合戦では、組織の意味がない。
自主性の話も一部これに近い。
だから、私は中高年の大人にも言いたい。
責任を果たしてから自主性を求めなさいと。
自主性を単なる自由や自分のしたいことをすること置き換えている大人が多すぎる。
最低限のすることをちゃんと実践する。それを自主的にする。それで組織に貢献してから、自分のしたいことを自己責任で真剣に取り組む。当然、失敗したら自分の責任である。他責に自主性は似合わない。
以上