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“意図的に見つけた情報”と“たまたまの情報”の違いは何か?

偶然の必然。
この感覚が好きで、30代からよく使ってきた。

年齢を重ねるとともに、最近は、何が偶然なのか何が必然なのかも考えることもなくなってきた。
いわば自然体という境地に近いのかもしれない。

特に、コロナ禍が発生してからは、意図的に何かをすることよりも、今、起こっていることや置かれている環境に、如何に適応するかを、以前よりも強く意識的に行動するようになった。別の言い方をすると、明日がどうなるか分からないというと大げさであるが、少なくとも1か月先がどうなるかは分からない日々が続いている。

こういう時期は、自分の立場としては、想定される最悪のシナリオを持ちながら、少しでも変化があれば、臨機応変に対応するという備えが一番重要だと思っている。
そういう意味では、行動するというより思考することにかなりシフトした生活を過ごしていると思う。

仕事を進める上では、もちろん計画はあるし、予実管理も行いながら、日々過ごしている。
一方、今は様々なプロジェクトや仕事を遂行する上での、移動の予定は立てにくい。

特にもう1年近く海外には行っていない中で、正確にはいつ以前のように渡航できる時期が来るかは分からない。そうすると、今から準備することはあまり意味がない。

だから結局、どう考えるかと言うと、できるだけ先まで、今の状態が続いたと想定して、様々な事を組み立てている。
私が経営をして30年近くになるが、これだけ不確定要素が多かったことはかつてないのである。

この不確定要素を解消するのも増大するのも情報であると私は考えている。
私も長年、企業の情報活用支援などの仕事を行ってきたので、情報活用の本質的な考え方は確立している。
会社経営においては、経営情報は不可欠だ。ビジネスのネタであったり、マーケット分析、アライアンスパートナーの発掘、新戦力の獲得、新興国の醸成など・・、会社経営ではきりなく情報を必要する。

情報を見つける方法も沢山ある。まずはできるだけ無料で見つけたいと言うのが本心であるが、なかなか世の中そうはいかない。有料の場所にしかない貴重な情報も沢山ある。コンサルタントの類に頼れば当然コストはかかる。
結局は、情報を獲得するのにはコストがかかると思って間違いなのである。

私は、このコロナ過で、以前のように動くことなく、どちらかというフィジカル的には静的に、思考的には動的に動いてきた。
こんな感じを続けていて最近気づいた事がある。
以前よりも増して、情報が見えてきたのである。

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情報を見つけるためには、情報を発信するのが先であり、少なくともこういう情報に興味がある、こういう情報を求めているということを何らかで発信して、情報の持ち主に届ける必要がある。

もともと、書籍を書いたりしてきたので、情報発信はしていたほうだが、この1年は、Bナビオンで毎日のように情報発信してきた。このことも相乗効果になっている実感は日増しに強まっている。
こんな感じで毎日過ごしていると、発信するのが先か、情報に出合うのが先かの区分がなくなってくる。

例えば、共通の知り合いがいた時は、初対面でも会話は弾む。同じ郷里の出身と分かった時もそうだ。
人は共通事項を見つけると一気に親近感が高まり、時にそれを必然の出会いと思う。

一方で、SNSなどを使っていると、何が共通の知り合いか分からないぐらい、機械的にリコメンドもあるし、実際、偶然見つけることもある。
こういう世界では、どういうきっかけでつながったかをいちいち考えていくのも意味がなく、変なあるがままな世界になじんでいく。

私はこれからも、情報活用というテーマはずっと追っかけていく。
最近は特に思っていることだが、情報に価値があるかどうかは自分次第。
情報の量よりも質を求めたいのは共通する願望である。情報が溢れている時代には情報を絞り込みたくなるのが自然だ。

これは人の知り合いも同じこと。人間はせいぜい100人から150人ぐらいの単位しか親密には付き合えない。
見つけた情報がたまたまであろうが、意図的に有料でコストをかけたものであろうが、その情報を活かすかどうかは、結局は自分次第なのである。

以上