マスク着用拒否者は時代の被害者かそれとも反骨者か―「マスパセ」の主張について分析
なぜマスパセ氏を分析しようと思ったか。
私は放送大学の耳が聞こえない近藤史一である。2020年から多くの眼鏡をかける聴覚障害者は補聴器にマスクと耳に負担がかかるようになってとても辛い思いをしたが、病院はもちろん外出時にもマスクをし続けた。そのような中、果たしてこのコロナ禍がどんなものだったのかを振りかった際に、2020年9月に飛行機を降ろされたマスパセについてふと思い出して、そのことの対応についての分析をしてみた。
注意書きとして、私は反マスクでも反ワクチンでもないことを最初に書き表しておく。
マスク未着用で飛行機を途中で降ろされた「マスパセ」は、社会の風潮に追われた時代の被害者であると私は考える。彼は、奥野淳也という名で大阪出身でのち東京大学を卒業され大学院まで進学した生粋の天才である。彼は2020年9月に北海道から関西に向かっていたピーチ航空の機内で、マスクを着けないことを理由に強制的に新潟空港に降ろされた。その後、威力業務妨害や傷害などの罪で逮捕起訴され、裁判で懲役2年執行猶予4年の判決を受けた。
マスパセ氏の主張は、主にTwitter(X)や本などで積極的に発信している。彼によると、マスクはせきなどの症状がある人が着けるものであり、健康な人が着ける必要はないという。また、ワクチンに対しても有効性や安全性に疑問があると主張している。
彼の考え方は、多くの人にとって非常識であり、科学的根拠に欠けていると批判されている。しかし、彼は自分の信念を貫き、マスク着用やワクチン接種への慎重論を展開し続けている。彼は自分が正しいと信じており、社会や国家による圧力に屈しない姿勢を見せている。
しかし、私は彼を悪者として断罪することはできない。なぜなら、彼は2020年当時の社会の空気やルールに翻弄された被害者だと思うからだ。2020年は新型コロナウイルスの感染拡大が始まった年であり、人々はパニックに陥り、不安や恐怖に駆られていた。当時はマスクが不足が入手困難な状況でそれが打開されたころだった。政府や専門家もマスクの効果や必要性について一貫した見解を示して皆がマスクを付けた。その中で、法的にマスクが義務付けられてないことから一部の人々はマスクを着けることを台湾や韓国そしてヨーロッパのように義務化しようとする動きがあった。
しかし、それは法的な根拠や科学的な根拠に基づくものではなく、感情的なものだった。自分や他人を守れるという安心感や信頼感を得ようとしたりするものだった。また、マスクを着けない或いはマスクを着けたくても着けられない人に対しては非難や差別の目を向けることもあった。これは、社会的な圧力や偏見によって生じた現象だった。現在も、アフターコロナの時代においても働き方改革やこの点での反省があまりみられていない。このような人権問題も同様に提起されるべきである。
マスパセはこのような社会の空気やルールに従わなかった人の1人だった。彼は自分の考え方や価値観を持ち、それを表現しようとした。しかし、それが社会的な規範や常識に反することで徹底的に排除された。彼は飛行機から降ろされただけでなく、何があったのかは判決文やそれに至る理由を読んでないのでわからないが逮捕されたり裁判されたりされた。更なる分析次第で、場合によってはかなり問題になり得るかもしれない。
マスパセ氏の考え方を読んで学んだこと
私はこのような社会の空気やルールに疑問を持つ。マスクを着けない人を罰することが本当に正しいのか、違う意見の人を気に入らないという理由で排除して人間の尊厳や自由の侵害まで奪うのはいけないことだろうと考察する。私は、これらの問いに対して、2020年から観察そして考察をし続けているが一向に答えが出ない。人々はそれぞれの立場や状況に応じて、自分で判断し、選択し、責任を持つべきだと思う。
2023年現在
2023年現在、新型コロナウイルスはまだ収束とは言い難い。しかし、人々はマスクを外すようになった。ワクチン接種が進み、感染症対策が緩和されたからと世間では言われている。しかし、脱マスクは政治的な判断や経済的な判断そして長続きする猛暑に基づくもののように感じた。および、パンデミックもまだ続くにも関わらず経済面の低迷や少子化などからまるで意図的に抑えられたように筆者は感じた。
今回はマスクを外す風潮になったが、次回はまた別のよくわからない根拠のないルールが法や医学的な根拠ぽいことを匂わせて、上からの命令と社会の雰囲気で決められるのが怖いと感じた。社会の空気やルールは極めて変わりやすく、一貫性や論理性に欠けるものだ。最悪の場合、それが朝鮮人虐殺及び福田村事件といった人間の凶暴性も増してしまうこともある。次は、あくまでも個人に任せることを協調させ、マスクなどのルールも法律できちんと定めるべきだと感じた。
マスパセはこのような社会の空気やルールに従わなかった人物と世間では決めつけられた。彼は時代の被害者だったと思う。彼は自分の信念を貫き、社会や国家による圧力に屈しなかった。彼は民衆がいかにマスメディアや一つの意見に流されるということを広めた勇敢な男という意見もあれば、彼は社会の考え方に逆らった愚かな意見もある。彼は正しかったのか。彼は間違っていたのか。私は、これらの問いに対してまだ分析中で答えられない。ただ、彼のおかげでこの社会の仕組みや不安定さについて24歳という筆者の年齢ながらも知ることができた。今回のことでの教訓は、どんな時も言われたことを疑い調査し、相手を理解し、相手に寛容であるべきだと思う。
若林純一さんについて
同様に若林純一議員も被害者であると私は考える。彼は大分県臼杵市議会でマスク着用を拒否し、発言禁止処分を受けた。その後、辞職勧告決議を受け入れず、4年に一度の市議選に出馬したが最下位で落選した。彼もまた自分の主張を訴え続けたが、社会そしてマスコミの情報操作により社会から排除されるように仕向けられてしまった。わずか1年後には、脱マスクの方向が決まった中若林純一の発言は間違っているところもあればある意味正しかったのかもしれない部分もある。
マスパセ氏や一部の人たちは、述べているがパンデミックが終結したというのは誤った考えでまだ終結してないという認識には同意する。
まるで、メディアや政府が経済的、少子化の理由でパンデミックを終わらせたのではないか、民主主義国家でも少し上が何かいうだけでそれが曖昧なものでも簡単にその方向に人間たちが進んでしまうという恐怖を個人的には感じた。
私は彼らの主張に全部が全部賛成するわけではない。ただ、マスクやワクチンの関することである特定の人を排除したり弾圧するのはやめるべきついては同意する。だが、一部同意できる部分はある。彼らは自分の考え方や価値観を持ち、それを表現しようとしただけで弾圧されたり排除されたりするのは、よくないと感じた。マスパセ氏や若林純一元議員はそれでも自分の信念を貫き、社会や国家による圧力に屈しなかったのは尊敬している。
結論
マスパセや若林純一議員は時代の被害者であると同時に時代の反骨者でもある。彼らは社会的な圧力や偏見そして社会の洗脳や常識を疑い、世間に対する疑問を発信し信念を貫いている。彼らの主張は多くの人にとって非常識であり、科学的根拠に欠けていると批判されていたが、果たしてそうなのだろうかと今現在振り返るとそう感じる。彼らは社会から徹底的に排除されたが、それに屈しなかった。彼らは勇敢であると同時に愚かであると言えるかもしれない。しかし、彼らは正しいとも間違っているとも言えない。私は残念ながら彼らのことを直接会ったことも無いしそもそも知らないので彼らを悪者として断罪することはできない。ただ、私は彼らの行動心理を理解しようとすることができる。私たちはこれから彼らのような違う意見や社会の疑問点について発信することに対して一度受け入れて尊重することが大事なのではないだろうか。次のパンデミックやもっと他の国難が訪れた時に、異質な意見に対して否定するのではなく寛容に受け入れることが大事であることをこの文章で述べたい。
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