【みんな不安になればいい】映画監督アリ・アスター
アリ・アスター
アメリカの映画監督。
『ヘレディタリー/継承』、『ミッドサマー』、『ボーはおそれている』といった衝撃的な作品を世に送り出し、業界のみならず世界中から注目されている。
アリ・アスター
[生年月日]
1986年7月15日(37歳)
[出生地]
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
[職業]
映画監督、脚本家
[監督作品]
2011:『TDF Really Works』、『The Strange Thing About the Johnsons』、『Beau』
2013:『Munchausen』
2014:『Basically』、『The Turtle’s Head』
2016:『C’est La Vie』
2018:『Hereditary(ヘレディタリー/継承)』
2019:『Midsommer(ミッドサマー)』、『Midsommer: The Director’s Cut(ミッドサマーディレクターズカット版)』
2023:『Beau Is Afraid(ボーはおそれている)』、『Dream Scenario』
[略歴(wikipedia参照)]
ユダヤ系の両親を持つアリ・アスターは、ニューヨークで生まれた。父は音楽家、母は詩人で、遺伝疾患のある弟がいる。
1990年、4歳のアスターは『ディック・トレイシー』を見に行った。アスターにとって、それが初めての映画体験となった。登場人物が炎の描かれた壁を背にマシンガンを撃つシーンを見た瞬間、アスターは興奮のあまり座席から飛び跳ねてしまった。それでも興奮が収まらず、アスターは町中を走り回り、母親を振り回したのだという。その後、父親の仕事の影響で一家はロンドンに引っ越したが、ほどなくしてニューメキシコ州アルバカーキに移り住むことになった。アスターは青春時代を同地で過ごした。
成長したアスターはホラー映画の製作に情熱を燃やしていた。アスターはその頃を回想して「僕は行ける範囲の全てのビデオ店に行き、その店のホラー映画コーナーにあった映画を片っ端から鑑賞した。(中略)ただ、当時の僕はホラー映画を作るのに必要なスタッフをどうやって集めたら良いのか分からなかった。(中略)取り敢えず、脚本を書くところから始めてみた。」と述べている。
その後2010年、アスターはAFI (映画製作者を教育し、アメリカにおける映画芸術の遺産を顕彰するアメリカの映画団体。American Film Institute)Conservatoryを卒業。そこで出会ったパヴェウ・ポゴジェルスキとはその後の作品における共同作業者となった。
2011年、アスターは初監督作『TDF Really Works』を発表した。その後の7年間で、アスターは6本の短編映画を世に送り出した。2018年1月21日、自身初の長編映画『ヘレディタリー/継承』がサンダンス映画祭で上映され、批評家から激賞された。同作は「21世紀最高のホラー映画」とまで評され、全米2964館で封切られた。公開初週末に1357万ドルを稼ぎ出し、週末興行収入ランキング初登場4位となった。
2019年7月3日には2作目の長編映画となる『ミッドサマー』、2023年4月21日には3作目の長編『ボーはおそれている』を公開し、いずれも批評家から高く評価され、世界に衝撃を与えた。
昔から、ホラー映像が大の苦手でした。
安っぽいCG映像でも、絶対あり得ないだろうという馬鹿馬鹿しい設定でも、ほんの少しでもホラーのにおいがすれば、無条件に目を背けて生きてきました。
なぜなら、怖かったから。なんでお金を払ってまで怖い思いをしなければいけないんだ、わけがわからん、と。
大学生になってから友人の猛烈な勧めで観てしまった『ゲット・アウト』(ジョーダン・ピール)は、長かった私のホラーイヤイヤ期を、気持ちいくらいにすぱっと終わらせてしまいました。
たしかに怖い。だけど、意味もなくただ驚かされたんじゃあない。細部まで緻密に計算された、哲学命題としての恐怖。それは壮大な問い。
怖いって、なんだ? 私は、人間は、何を怖がって生きているんだ?
ホラーの魅力に気づき始めた私は、『シャイニング』、『羊たちの沈黙』、『ソウ』シリーズ、『CUBE』、『エスター』、『オールド』、『死霊館』、『呪詛』など、ホラー・スリラー作品を次々に鑑賞し、これまで意識的に閉じていた世界の拡がりとホラー耐性を徐々に徐々に獲得していきました。
そんなホラー克服期に、とんでもない作品(監督)に出逢ってしまいました。
アリ・アスターは、(当時)たった一本の長編映画で、私に、全世界に、消えないトラウマを刻み込んだのです。
それは、人類が誕生した約700万年前から密やかに継承され続けてきた太古の恐怖感覚をグロテスクなほど鮮やかに呼び覚ますような、あらゆるジャンルを超えた衝撃でした....。
***
『ヘレディタリー/継承』
『ヘレディタリー/継承』(Hereditary)は、2018年に公開されたアリ・アスターの長編映画監督デビュー作です。
本作は公開当初より多くの批評家からの絶賛を受け、「21世紀最恐のホラー映画」と評されています。
「どうか許して 多くを言えなかった 失うものを嘆かないで 犠牲は恩恵のためにある」と綴った手紙を遺して死んだグラハム家の祖母エレン。
エレンの娘であるアニーは、夫のスティーヴン、内気な高校生の息子ピーター、祖母に溺愛されていた対人恐怖症の娘チャーリーとともに、家族を亡くした哀しみを乗り越えようとするも、家族を襲う奇妙な出来事と悲惨な事故により、一家は修復不可能なまでに崩壊していく。
一連の出来事と恐怖の結末が“継承”されたものだと解った時、そこに完璧な悪夢が完成する...。
様々なホラー映画の要素が取り入れられ、アリ監督のホラー映画に対する並々ならぬリスペクトを感じる本作ですが、アリ監督は自身の作品について、「オカルトやホラーのふりをしているが、自分はそういったつもりでは作っていない」と語っています。
『ヘレディタリー』はアリ監督曰く“家族ドラマ”だそうで、監督のプライベートで傷ついた出来事(弟に遺伝的な疾患があることがわかった)が、5年かけて作成したシナリオに強く影響しているそうです。
また、アリ監督は本作を撮るにあたって「家族のショッキングな話を描いた映画リスト」を作成し、自身の傷を癒すため、とにかく“家族”と向き合ったといいます。
「この作品はホラー映画ではない」
当時、アリ監督の発言を切り抜いたこのフレーズが一人歩きしており、『ヘレディタリー』を観て恐怖のどん底に突き落とされていた私や友人たちは、「え?じゃあ私たちはなぜこんなにも恐怖を感じているの?」と困惑したわけですが、続く「これは家族ドラマだ」という監督の言葉に、どこか納得感を覚えました。
「“ホラー”とは何か」と問われると、ばくっと幽霊だとか超次元的な現象なんかを想像してしまいますが、「”真の恐怖“とは何か」と問われると、答えは常に身近に潜んでいるような気がして、それはつまり、私たちの悩みの全てを構成している”人間関係”そのものなのではないかと思うんです。
私や友人が家族ドラマ(アリ監督曰く)を観て恐怖に震えていたのは、“家族”というこの上なく強い結びつきである“人間関係”が理不尽な運命と疑心暗鬼によって見るも無惨に崩壊していく様が、裡に抱えている“あらゆる悩み”を刺激して、“完璧な悪夢”へと変貌させたからなんじゃないかと思いました。
当時、私は車で配達のバイトをしていたのですが、ヘレディタリーを鑑賞してからバックミラーを見るのが怖くなってしまいました。
後ろにコッコッ、と舌を鳴らす無表情のチャーリーが座っているような錯覚をしてしまうのです...。いるわけないのに...。
『ミッドサマー』
『ミッドサマー』(Midsommar)は、2019年に公開されたサイコロジカルホラー映画です。
あらゆるホラー映画の常識を覆した本作は、長編2作目にして、アリ・アスターがホラー映画界の天才であり巨匠であるということをまたもや全世界に知らしめました。
舞台はスウェーデンのホルガ村。太陽の沈まぬ白夜と美しき北欧の風景に囲まれる理想郷のようなこの村で、90年に一度開催される夏至祭を見にきた主人公のダニーとその恋人クリスチャンらは、淡々と執り行われるショッキングで残酷な儀式に、夏至祭がただの祝祭ではないと気づき始めます。
コミューンの真実が明かされ、知らず知らずのうちに仕組まれた生贄の儀式に参加してしまったダニーらは、白夜と北欧の自然美の中、狂気に蝕まれ、次第に取り込まれていきます。
淡々と描かれるコミューンの狂気と緻密に配された数々の伏線、美しき北欧の自然美と残酷な儀式。『ミッドサマー』における美と恐怖のコントラストは、観るものにかつてないトラウマを植え付けるでしょう。
性の儀式の映像は、物語の中でも最もクレイジーなシーンのひとつであり、本作における最も重要なポイントのひとつでもあります。
クリスチャンが食べたパイの中に陰毛が入っていたり、ポットの蒸気で精力剤を吸わせたりと、着々と進む儀式前の準備も不気味なのですが、クリスチャンとマヤを囲む全裸の女12人が、2人のセックスに合わせて自らの乳房を揉みしだいて「アー↑アー↑」と喘ぐ映像は、ものすごく奇妙かつ不気味で、観るものに強烈なショックを与えました。
儀式に加え、クリスチャンの性行為姿を見てしまったダニーが泣き叫び、彼女を囲む女たちも同じように泣き叫ぶシーンは、“感情の共有”によってダニーの大きな苦しみを癒し、彼女が心ごと共同体へと取り込まれていく重要なポイントです。
アリ監督の作品に必ず登場する「共同体」「コミューン」「思想団体」。
共通の信条のもと思考と行動を同じくする彼らは、謂わば洗脳集団のように私たちの目に映り、“繋がり”に対して奇妙で不気味なイメージを与えます。
“共感”は決して悪いことではありません。個人的なショックや悩みを抱えていると、誰かに相談したくなるし、共感してもらうことで痛みは慰められます。それは誰しもに共通する人間心理です。
ですが、“共感”を正義とし、“集団”が生まれると、“強制”あるいは“矯正”という限りなく強い力が発生してしまいます。
時代は“共感”から“提案”の流れに変わりつつありますが、それでも世の中には「共感できる歌詞」「共感できるシナリオ」、言い換えれば「わかりやすい」大衆作品がごまんと存在し、「わかりやすさ」をしか評価しない層が大勢います。
実は、この「わかりやすさ」信奉はとても恐ろしいのです。
なぜなら、「わかりやすさ」は私たち人類にとって最も尊重されるべき能力、“想像力”を奪ってしまうから。
大袈裟にいえば、いきすぎたマジョリティはアリ監督の映画に出てくるコミューンとなんら変わらぬ洗脳集団であり、自ら進んで「アイデンティティを献上している」盲目な信者たちなのです。
私は、『ミッドサマー』を鑑賞して「こうはなりたくないな」という恐怖を感じながら、「もしかすると自分もこの映画で描かれている人たちと同じかもしれない」という恐ろしい可能性に震えました...。
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映画におけるヌードは女性がほとんどですが、アリ監督は男性のヌードも映します。
『ミッドサマー』でもクリスチャンの局部がしっかりと映っていましたが、彼が全裸になったのはクリスチャン役を演じたジャック・レイナーのアイディアだったらしく、「映画界のバランスを取るための選択だった」といいます。あんなにも過酷で不気味なセックスシーンを演じ切ったジャックは、俳優として数段ステージを上げたと言えるでしょう。
またもや世界中にトラウマを植え付けた『ミッドサマー』ですが、本作の構想を作成するに至ったのは、自身の失恋体験だとアリ監督は言います。
失恋でこんなにも壮大な作品を作ってしまうのか...。羨ましいようなそうでもないような...。
『ボーはおそれている』
『ボーはおそれている』(Beau Is Afraid)は、2023年に公開された、アリ監督の長編最新作です。
『ジョーカー』『カモンカモン』などで知られる怪優ホアキン・フェニックスが主人公ボー役を務めた本作は、アリ監督の考える“映画の役割” “想像の可能性”を可能な限り挑戦的に示した、今までに類を見ない映像作品になっています。
ストーリーは、何をするにも不安な童貞の中年ボー(Beau)が、電話を受け、怪死したらしい母親の元へと向かう、という極めてシンプルなものです。
ですが、シンプルな目的に対する道程があまりにも荒唐無稽な展開、それでいて緻密かつ美しいディティールに満たされており、私たちは迷うことなく混乱させられてしまいます。
狂気に満ちたアパート周辺一帯を飛び出し、裕福な医者の家庭に泊まり、森のコミューンで劇を鑑賞し、過去の記憶と現実と虚構が邪悪に入り混じり、ボーとともに不安が増長していく...。
「映画の中で追求している遊びの本質」を表現したという本作。
「作り手は作品にメッセージを込め、受け手(消費者)は作品からそのメッセージを受け取り、満足する」
この伝統的なストーリーテリングの構造に真っ向から挑み、鮮烈に破壊してみせた本作は、“文学の在り方”を世界に提唱し、“分かり易すぎる”作品が機械的に消費されている現代の映画シーンないしは文学シーンに大きく警鐘を鳴らしました。
つまり、アリ監督が描いた『ボーはおそれている』は、“私たちの想像力を最大限に尊重し、試している”のです。
荒唐無稽で理解不能に思える本作のストーリーですが、“観客の想像力に挑戦した”本作ですので、私たちも、ただ「わからない」と言っているだけではいけません。
想像力を働かせずに眺めているだけでは、ガードを一切せずにボクサーからタコ殴りにされているようなものです(初回はそれでもいいかもしれませんが)。
言わずもがな、これまでのアリ監督作品同様、本作にも様々な仕掛け、緻密なメタファーが散りばめられています。
「映像の全てがディティールである」という表現が似合うでしょうか。繋がりなどないように見える一つ一つのモチーフが執拗なリアリティに満ちており、強烈な引力を有しています。
特に本作でよく見られるのが、「水」です。
黄色いおもちゃのボートが転覆する冒頭のシーン(結末の暗示)、浴槽、薬を飲むための飲料水、プール、洪水、そしてボーの苗字ワッサーマン(水の妖精)。
明らかに“水”の要素が多く登場しますが、いったい“水”は何を表しているのでしょうか?
決まった答えはない(文学として)と思いますが、アリ監督が本作で描いた“家族(血縁)”について考えてみると、一つの解釈が可能になります。
『ヘレディタリー』『ミッドサマー』『ボーはおそれている』の3作品に共通するのは、“家族を失う”というポイントです。
ただし、『ボーはおそれている』における家族の失い方はこれまでの作品と異なります。
それは、完全に精神的な離別あるいは迫害だということです。
怪死したはずの母親は結局死んでいなかったのですが、ボーは生きていた母親から詰問され、憎まれている(歪んだ愛ゆえに)ことを知ります。
母親との再会は、死別よりも悲惨な、サイコロジカルな離別となったのです。
母親がボーを憎み、訴え、裁きを与えるに至った理由は、“強い独占欲”によるものですが、その異常な愛情は、ボーを精神的な檻に閉じ込めました。
中年になってまで童貞でいて、完全に自律できていないのはそのためです。
「私がこんなにもつらい思いをして尽くしているのに、息子は何も返してくれない」と母親は訴え、いくつかの事例を提示し、ボーを裁判にかけました。
この訴えは、言ってしまえば「あんたなんて生まれなければよかった」という思いをその愛の重さと同じように仰々しく表出したのと同じです。
「生まれなければよかった」
この気持ちこそ、本作で感じる最も強い恐怖、そしてボーが最もおそれていることなのではないでしょうか。
上記を踏まえると、作品に登場する“水”は、“羊水”を表しており、“胎内回帰”のメタファーであると考えることができます。あくまで私が現時点で展開したちっぽけな想像の裡の話ですが。
ちなみに、私は本作を鑑賞していて、思わず何度か“笑って”しまいました。
感じ方によってはシュールコメディにとられてもおかしくないような展開とモチーフがたくさん登場する本作では、「怖いというよりおもしろい」という感想も多く見られます。
たしかに、巨大なペニスの形をしたお父さん(母親の怨念の具現?)なんて、グラフィック的にとてもシリアスな気持ちでは見れなかったです(笑)
恐怖とは「私たちがそうなりたくないと願うもの」である。
そんな風に一言で言ってしまえばホラー映画の役割も楽になるのですが、語り尽くせないのが恐怖であり、心理という最大の謎です。
みんな不安になればいい。
語り尽くせない恐怖を追求し、私たち人間の心理を隅々まで探索する“恐怖の探索者”アリ・アスター。
彼がこの先、人類をどこへ連れていってくれるのか、楽しみでなりません。