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熱砂【掌編小説】



 雨の日、少年に出会った。
「おじさん、迷子?」
「迷子じゃないよ。この道を歩くのが日課なんだ。今日はうっかり傘を忘れてしまったから、ここで雨宿りをしてる」
「天気予報は見なかったの?」
「もちろん見たよ。朝の5時30分きっかりに。今日はたしかに雨のマークがついてたね。だけど、うっかり忘れてしまったんだ」
「おじさん、迷子?」
「迷子じゃないよ。決まった道を歩いてるだけ......君は、ここでなにをしてるのかな?」
「待ってるんだよ」
「待ってる?あぁ、お友達とはぐれちゃったのかな?」
「....」
「大丈夫、すぐに会えるさ」
「おじさん、雨は好き?」
「うーん、どちらかといえば好きじゃないかなぁ。なにかと不便だし」
「猫は?」
「ん?」
「猫は好き?」
「あぁ、猫ね。好きだよ。人並みに。飼ったことはないけど、野良猫が走っているのを見かけるととついつい目で追っちゃうな」
「ねえ、人並みってなに?」
「普通の人と同じくらいってことだよ」
「ふーん.....ねえ、明日もこの道を歩くの?」
「うん。これは決められた日課だからね」

 私は少年と友達になった。少年はいつも知らない海外バンドのTシャツを着ていた。
「あそこで“うずくまってる”おじさんがいるでしょ?」
「うん」
「あのおじさんはね、植物学者なんだよ。電信柱の足元の“ショクセイ”を調査してるんだ」
「へえ、立派だ」
「あそこで空にカメラを向けてる女の人はね、電線マニアなんだ。電気が空を直線に走ってる姿勢がたまらないみたい」


 少年はこの“通り”のことについてなんでも知っていた。


 あのお兄さんは毎朝あのカーブミラーで髪をオールバックに整えるんだ。家に鏡がないのかな?

 あのおばさんは晴れた日だけこの道路にやってきて、熱々のマンホールを触るんだ。晴れた日のマンホールの熱がセイシンテキに落ち着くんだって。
 
 あのおじいちゃんはね、あそこのベンチでずうぅっっっっとバスを待ってるんだ。ここの通りにバスなんて走ってないのに。ふふ、ブスバスガイド、バス待つ白髪(はくはつ)ってね!


「おじさん、猫は好き?」
「好きだよ。人並みにね」
「ロバート・デニーロは?」
「好きだよ。彼の演技に対する情熱は普通じゃない」
「人並みじゃないってこと?」
「そう。人並みじゃない」
「ロバート・デニーロで踏んでみてよ」
「踏む?」
「うん。“だじゃれ”言って」
「だじゃれか.....。ろばーとでにーろ、ろばあとでにいろ.....。難しいな、まったく思いつかないや」
「そっか。そんな日ってあるよね!」
「そうだね、おじさんにもロバート・デニーロで踏めない日くらいある」
「魚は好き?」
「好きだよ。見た目も好きだし、食べるのも好きだ」
「じゃあ、魚を釣ったことはある?」
「ないなぁ、釣りはしたことがない」
「釣りはしないけど魚は好きなんだね!」
「うん、そうだね」
「おじさんはケッコンしてる?」
「うん、してるよ」
「どうしてケッコンしたの?」
「どうしてか...難しいな」
「難しいの?」
「ケッコンは難しくてわからないことだらけなんだ」
「おもしろそう!」
「そうだね。うん、そうかもしれない」


 1ヶ月後、田丸から電話がかかってきた。
「お久しぶりです。“お散歩”は順調ですか?」
「順調なんですかねえ。お役に立っている気はこれっぽちもしませんが。でも、友達はできました」
「友達ですか!それはとても素敵なことです。出会いは限られた財産ですから」
 電話の向こうで田丸が喜ぶ気配が伝わってくる。「わたくしはあいもかわらず忙しかったり忙しくなかったりの毎日です。忙しい時は持ち前の完璧を繰り返し、忙しくない時はこれまた完璧を繰り返す。幸いなことにまだ私の完璧さは損なわれていません。できたてのピカピカというわけではありませんが」
 電話越しにがしゃがしゃという物音がする。作業の片手間に電話をかけているようだ。これも彼の言う“完璧さ”なのだろうか。
「正直、タフな仕事ですよ。わたくしが忙しくしている時は必ずどこかで人が人を殺しているのですから。気にしないようにしていても、その事実は煙のように音もなく、わたくしの頭の中に侵入してきます。どれだけわたくしが完璧に仕事をこなしたところで、奥様からの依頼はやむことはありません。つまり、人は人が人を殺すことを止められないのです。この点が、わたくしの完璧さの立場を常に脅しています。わたくしが一時期心酔していたロシアの劇作家チェーホフの小説に、『ピストルがあるのなら撃たれなくてはならない』という言葉があります。最近、この言葉がわたくしの頭に浮かぶのです。あるいは、血溜まりがあるのなら凶器がなくてはならない。....すみません、わたくし少し疲れているようです。一日中外に出て、友達の一人や二人でも作った方がいいのでしょうね」
 がしゃがしゃという物音が、冬の虫のように弱々しくなった。電話の向こうにいる体の大きな探偵は、本当に疲れているようだ。
「ところで、お散歩のことについては奥様とお話しされましたか?」
「いえ、していません。言っても言わなくても、変わりませんから」
「やっぱり!わたくしの予想通りだ!もちろん、友達のことについても同様ですね?」
「はい。妻には特に何も話していません」
「本当に賢いお方だ!」
 田丸の声に熱がこもった。「加賀さん、近いうちに全てが解決するような予感がします。物語が動き出す時は、何かを“求め始めた時”です。全ての物事は連なっていて、発端には必ず何かを“求める”心があります。結果は行為の連なりで、行為は行為と運命的に交わることでその形を変えてゆくのです。我々の結果がどうなるのかは神様しか知りません。ですが少なくとも、加賀さんはここらできちんと”ソルジャー“になるべきです」
「...」
 電話は一方的に切られた。どっと疲れた気分だった。

 7月。街を行く人はそろって、まとわりつく夏の蒸し暑さにうんざりした顔をしていた。

「おじさんは普段どんな音楽を聴くの?」
「音楽は、あまり聴かないんだ。時々Spotifyで流行りの曲を流したりすることはあるけど」
うそ!そういうのって、信じられない!
 少年は信じられない、という顔をした。不思議なことに、汗ひとつかいていない。声の抑揚だけは、幼い人間味を感じられた。
「“レディヘ”は聴いたことある?」
「レディヘ?」
「レディオヘッド」
「海外のバンド?聴いたことないな」
「うそ!じゃあ“レッチリ”は?」
「レッチリ?」
「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」
「ああ、名前は知ってるけど、聴いたことはないな」
「ほんと?!おとなの人はみんな聴いてるんだと思ってた」
「私はおとなじゃないんだろうね」
なあんだ、そういうことか!
 少年は満足そうな顔でステップを踏んだ。私は日陰を選んで歩いているのに、見苦しいほど汗だくだった。
「だけどおじさんはケッコンしてるんでしょ?」
「うん、ケッコンしてるよ。でもね、ケッコンしてる人がみんなおとなだとは限らないんだ」
「どうして?」
「どうしてだろうね。おとなにならないとわからないことなのかもしれないな」
 呼吸が苦しくなるほど空気が熱い。日なたには悪意さえ感じるほどだ。
「ケッコンもおとなも、難しくてわからないことばかりなんだ」と私は言った。
 年端もいかない少年に、何を言っているのだろうと思った。ただ、少年と話している時はいくらか暑さが和らぐような気がした。

 梅雨前線は過ぎ去ったものの、じめじめした気候が続いた。暑さで外に出るのは億劫だったが、散歩は続けた。
 本格的な夏の到来で通りの様相はいくらか変わっていた。2ヶ月前には見えたものが見えなくなったり、見えなかったものが現れたりした。私自身は変わらず、朝になると外に出て、夜になると家に帰る、規則的な生活を繰り返していた。

なんのためにうまれて
なにをしていきるのか
こたえられないなんて
そんなのはいやだ!

 親子とすれ違う。母親に注意された男の子は、私に向かって大きな声でこんにちはと言った。私はこんにちはと返して微笑んだ。
 後ろの方で、再び歌い出した男の子の無邪気な声が聞こえた。
「おじさん、“セイハツリョウ”って知ってる?」
「知ってるよ。散らばった髪の毛を整えるのに使うんだ」
「“セイハツリョウ”の歌を作ったんだ。曲名は、『セイハツリョウのマーチ』」

シュパッ シュパッ シュパッ シュパッ
そこどけそこどけ
しゅっ しゅっ ぱっ!
シュパッ シュパッ シュパッ シュパッ
そこどけそこどけ
ぼくたち“ガキンチョ”
だれにもまけない
だれにもかてない
かてないかてない
まけないまけない

「個性的な歌だね」
「普通じゃないってこと?」
「うん。普通じゃない」
「月並みじゃないってこと?」
「うん。月並みじゃない」
「そうなんだ、月並みじゃないんだ!」
 少年は『セイハツリョウのマーチ』を繰り返し歌った。
シュパッ シュパッ シュパッ シュパッ
シュパッ シュパッ シュパッ シュパッ
シュパッ シュパッ ......

「おじさんが今いちばん欲しいものは何?」
「欲しいもの...なんだろう」
 私は汗をかいた。
「おじさんは年を取ってしまったから、これと言って欲しいものはなにもないんだ」
「おとなじゃないのに?」
「おとなじゃないけど、欲しいものはないんだ。君は、何が欲しいの?」
 少年は「海だよ」と答えた。
「海?」
「うん。海は想像もできないくらい広くて大きいけど、欲しいと思えば思うほど、足りなくなっちゃうんだ
 少年の声にはどこか上擦っているような響きがあった。
「おじさんが今まででいちばん楽しかったことは何?」
「...」
 私は汗をかいた。
「たくさんあるんだ、楽しいこと。楽しいこと。おいしい朝ごはんを食べることでしょ、おっきな木に登ることでしょ、歌をプレゼントすることでしょ、ふかふかのふとんでお昼寝することでしょ、あとはなんだろ...あ、ぜんそくりょくで走ること!」

 私は激しく汗をかいていた。

 しばらく、少年ははたと姿を消してしまった。少年のいない散歩道はまるで砂漠のように索漠としていた。
 電信柱の植生学者、電線マニアの女、来るはずのないバスを待ち続ける老人。誰一人私に見向きもしない。私は何を見ているのだろうか。激しく汗をかいていた。

         ***

 雨が降っていた。少年は雨晒しのベンチに腰掛けていた。
「おじさん、迷子?」
「そうかもしれない。君は?」
「傘はもってないの?」
「持っていないよ。天気予報は晴れマークだったからね。いずれにせよ、天気なんてどうでもいいことさ」
 少年は汗ひとつかいていなかった。

 向こうから一人の女が近づいてきた。この通りで見たことのない女だ。少年が女の姿に反応する。
「何してるの!!」
 女が叫んだ。女が親しい者をひどく心配する時の声だった。
「おじさん、そろそろいかなきゃならない」
 少年は立ち上がり、私を見た。
 瞬間、私はよろめいた。閃光が迸り、脳がどろりと溶けだしたような感覚。悪意を持った太陽が体内で核融合反応を繰り返し、意識の全てを鈍らせ、全てを逸らせていた。
 私は求めていた。今、自分は砂の上を歩いている。辺り一面真っ白な砂に覆われた世界と、ひとつの太陽。変わることのない風景を歩き続ける。どれだけ歩いても変わらない。全身の疲労さえ、ある地点を超えればあとは変わることがない。糸のように細い意識が、かろうじて両足を動かす。激しく汗をかいている。空一面の太陽は私を熱で押さえつけようとしている。たまらず、足元に顔を向ける。足元の砂が、光っている。私は持っていた短刀を砂に突き刺す。感触はない。砂は短刀の刺さった箇所を埋めるようにさらさらと変化する。再び突き刺す。砂がもとに戻る。突き刺す。もとに戻る。太陽は容赦なく襲いかかる。私は何度も短刀を突き刺す。体のどこかから湧き出す衝動に任せて。意識が白んでいく__。

 ___体が動かない。遠い感覚が戻ってくる。
「______ん、加賀さん!!」
 田丸だ。田丸が後ろから私の体の自由を奪っている。強い力だ。振り解こうとしても無駄だという意志がはっきりと伝わってくる。
 視界が赤く染まっている。ごぼごぼと噴き出しているのは、血だ。鮮やかな血液が、その体の左胸のあたりから音もなく噴き出している。目の前に横たわっているのは、新鮮な死体だ。死体から噴き出す赤い血液の勢いは、生を象徴しているように、美しい。
 ぼんやりと浮かび上がってくる。妻の顔だ。
「お母さん!お母さん!」
 少年が泣き叫ぶ声が聞こえる。死体は、妻のものである。
 体が燃えるように熱い。私の右手には、赤く染まったナイフが握られていた。




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