好きの残骸あるいは心の中のスペースデブリ
「トランシルヴァニア」ってロマ男性追いかけて東欧まで行ったアーシア・アルジェントがふられて失意のまま、しかも身重でトランシルヴァニア地方をロマの文化に身を浸しながら彷徨う映画が妙に好きで、サントラも買って、その後もアーシアのことはなんとなく好き寄りな俳優と思っていた。
けれどそうその数年後彼女は性的暴行で訴えられたのでした。
性的暴行まで行かずともセクハラでもそれはそれはされたら最悪だ。
怖いしキモいしなんと言ってもとってもとっても自身を軽く見られているということがわかる。侮辱である。
自分の個人の尊厳を守りたいならば、世の中に訴え出られた尊厳のための闘いを応援したい、しよう、という気持ちがわたしにはある。
だから性的暴行で訴えられたアーシアはわたしにとってもヒトの尊厳を踏みにじる仮想敵、、、になるかというとそれがすんなりとそうとはならないのであった。
ハッキリと言ってしまえばまず映画「トランシルヴァニア」もその中の彼女の演技も好きなままなのだ。
ただそこにももしかしたら彼女の被害者がいたかもしれないなどと想像すると、途端に好きの気持ちの行き場がなくなって宙ぶらりんになる。
被害告発からしばらく経って、よく知らない被害者のために怒り続けるのも何だか奇妙な感じがするし、そもそも怒るというのも変な感じだ。
渦中も遠いアジアの東で応援の気持ちを持って事の推移を見守るのが関の山だった。
しかもこの件は進んでるんだかいないのだかよくわからない。
今現在わたしの中にはただただ確固たる「好き」だったものの残骸が足場をなくしてぶらーんと漂っている。
イメージはスペースデブリだ。
そしてここ数年そのようなスペースデブリは増え続けている。