
思いつきで家出した絶賛中2病の春
間違いなく人生で濃厚だった日ベスト5…いやぶっちぎり1位に入る日を書いてみようと思います。
親になった今、本当にとんでもないことをやらかしたなと再認識しています。奇しくも息子は今中2です。
四半世紀前のことなので記憶が抜け落ちているところもありますがつらつらしていきます。
中2になりたての5月。
それはその日当日に場面で思いつきました。
とってもとーーーっても厳しい私立に幼稚園から通っていた私。
兄たちは地元の公立に通っていて、もちろん男女共学だし髪なんか染めちゃったりして。時代はギャル全盛期。ギャルになりたい私は校則が厳しい学校に小4くらいから段々嫌気が指し始め、転校したいことを常々親へ直談判していました。けれど親は私の将来のためと聞き入れてくれず。そりゃそうですよね。今なら親の考えがとても良くわかります。
けれど子どもの私は厳しい学校がただただ苦痛でした。幸いにも友達には恵まれてたので友達関係の悩みは皆無でした。
スカートの長さは膝が隠れる程度、ルーズだめなんて当たり前。
前髪が長いという理由で先生に前髪を切られたり、リップクリームを持っていっただけで荷物検査で先生に見つかって親が監督不行き届きの謝罪文を書いたり、、、あと目立つことが好きな私は単純に先生から目をつけられ嫌われていました。(小6の頃カンニングを疑われ呼び出されて全部目の前で解説しながら解いてみてと言われたことや、泥棒が赤ちゃんを拾って改心していく教科書の題材の感想を述べるとき、キリスト教の学校だったので、泥棒を改心させるために神様が赤ちゃんを置いたんだと思いますと言ったら担任が、神様が~?wと言ってみんなの前でバカにしてきたこともあれもこれもあれだって四半世紀経っても忘れてないからな)すごい…四半世紀経っても思い出すとムカついてくる笑
話はそれましたが中学に上がっても何度か校則違反などで注意を受けていた私。その日も学校帰り友達と遊ぶため、いそいそとスカートをベルトで短くしいざ学校を出ようとしたとき、また先生に見つかってしまいました。(学校出て駅で短くすればいいのにアホ)
先生に注意と指導をされ、あーこりゃまた親に連絡行くわと思った瞬間、糸が切れたといいますか、もーやだ、帰りたくないと友達に吐露しました。
ほんとにもうやだ、○にたいまでの気持ちになってしまい、学校への限界も爆発し、遺書に学校のせいで○にますって書いたら、新聞や週刊誌が取り上げてくれて学校の評判下がるかな?というとこまで考えが飛躍していきました。(新聞ってところが時代を感じる)
そのとき友達Iと友達Hと一緒にいたのですが、ふたりとも乗っかってきてくれて、じゃあ3人で一緒に○のう!なんて方向になってしまいました。中2のノリの軽さたるや…
そして1番楽に◯ねそう!というノリで3人で薬局へGO。そう睡眠薬での◯決を試みます。
「親がなかなか眠れなくて…睡眠薬ありますか?」とお店の人に訪ね、睡眠薬をgetしました。
そこから3人で遺書を書きました。ただただ学校のせいで、家族は何も悪くないということを書きました。親への感謝を書くときは泣きながら書いたのを覚えています。
そして三人でむしゃむしゃ錠剤を噛みながら食べ始めます。が一向に眠くならない、体に何の異変も起きない。(このときの経験から、未だによくニュースなどで睡眠薬で眠らせて〜系の事件を見るとそんなにあれ効く?と疑問になります。)ただまずいだけなので作戦変更。
次はハサミで手首切ろう作戦に。プリクラ切るための必需品で誰かが持っていたハサミで、刃を開いて手首に当て始めます。これがまー痛い。そしてシンプルに怖い。痛いし怖いし血が出るほどの傷をつける勇気もないしこれも途中で断念。
その次は飛び降りを試みることに…
駅までの通学路にあるマンションがその当時屋上まで入れたんだよな。詳細覚えてないけど。下を覗き込み高さにキャーキャー言いながら騒いでいるとまずはお弁当箱落としてみようということになります。
Iの立派なお弁当箱を落とし残骸を見に行くと、見るも無惨なお弁当の姿におののくものの再び屋上へ。それでも3人でどうするどうすると戸惑っているとIが「私は決心付いた!」と言い出します。えーちょっと待ってーと言いながら私とHは怖すぎて一向に決心つかず。ごめん無理と飛び降りも諦めました。今思い返すと本当に恐ろしいな。手繋いで勢いで飛び降りてたら…と考えると本当に鳥肌立ちます…
どの作戦もうまくいかない私達。なんとか痛くなくて怖い思いもしない○に方を模索していると、凍死って痛くなさそうじゃない?眠ったままいけるぽいし!という浅はかな考えに至ります。
するとIが、うちの別荘5月でも雹降るよ!とナイスな発言。(私立だったのでお金持ちがたくさん通っていて、Iは開業医のお嬢さまでした。)なんでもIの別荘がある清里は5月でも雹が降るほど寒いらしい。そこいくっきゃないっしょ!となり各々銀行からお金をおろし、それでも手に入れたのは1万円くらいだったかな、いざ清里へ。
唯一PHSを持っていた私は電源を切っていたので、最後にさよならを伝えたい友達にはそれぞれ公衆電話から電話しました。今から○にに行くことと今までありがとうを伝えました。その頃にはもう夕方から夜にさしかかっていたな。目的は本当に不謹慎で不届き者で親不孝の大バカ野郎だけど、そのときはとんでもないことをしでかしている自分に酔い、わくわくしたようなスリルを楽しんでいるような感情で、友達へもドヤすごいっしょ勇気あるっしょみたいなノリで電話してたなぁ…
Iは特におうちが厳しめだったので、普段から家から出るときの服装を注意されない対策でコインロッカーにイケてる私服を常備していました。だからIだけ途中から私服になったのを覚えています。電車はキセルをしながら清里に向かいました。本当にすみません。
一旦新宿かどこか都内に出て夜の街にわくわくしながらイキったあと清里を目指し、だいぶ田舎にさしかかったときにはもう終電の時間で、どこかの駅のベンチで3人でくっついて一夜を明かしたのを覚えてます。駅員さんが毛布を貸してくれたことも覚えてます。2人制服だったのにお咎めなしだったの今考えると不思議。
夜が明けてから電車に乗って清里へつき、Iの別荘へ向かう道の途中、シーズーみたいなワンちゃんが野良犬でいたなー。
別荘に着くと鍵がない私たちは窓を割って入ることに。そして寒くなる夜までしばし待つことにしました。このとき何をして過ごしたかとか、ご飯はどうしたとかは一切覚えてないです。
そしていざ薄暗くなってきたのでいそいそとハイキングコースみたいな林の中の川へ向かうことに。
川へ付いて暗闇の中、3人で半裸状態になって水をかけ始めます。そんなんで凍○するわけないのにと今ならわかりますが大真面目にやってました。
ただただ寒いだけで眠気も吹き飛び、全く眠くならないでいるとHが、怖い、帰りたい…と言い始めます。えーこの方法以外もうなくない?H考えてくれんの?と言い寄る私とI。包丁で刺すのも無理だしーとかも言ってたな。それでもHは、怖い、怖いと言い続けるので、じゃあ別の方法考えてよね!なんて強めに言い放ちながら別荘へ戻ることに。
そして別荘までの道を歩いてると突然「◯◯(私の名前)!」と呼ぶ声が聞こえてきます。前方を見ると静岡に住んでいる祖父の姿が。
え、え、なんでじいじいがと状況がよくわからずも鬼ダッシュする3人。なんでなんでと動揺している私の手をIが引っ張ってくれてわけのわからないままガチダッシュ。あのとき本当に人生で1番早く走った。後にあれは本当に速かったよねとIとよく思い出し笑いしてました。運動音痴な私、リレーの選手のIに引っ張られながら全力で足を動かし、人生で経験したことのないスピードにびっくりしつつこうやって早く走るんだと感心したのを覚えてます。
少し走った右側に少し坂を登ると駐車場になっていてその坂の両端が茂みになっている部分に気づき三人で茂みに飛び込みます。

3人でくっついてバレないようにじっと息を潜めていると大人たちが子供たちの名前をそれぞれ呼ぶ声が聞こえてきます。
「Iー!出ておいでー!」「Hー!」「Nー!」
どうやら三家族来ているらしい。なるほど、どういうわけかもう清里入りはバレていて静岡に住んでいる祖父なら1番早く清里に着くからうちは祖父も呼んだんだなと認識。おじいちゃん子だった私は「じいじいいるのはずるいよ…」と呟いたのを覚えています。
捜索中の大人たちの中には警察もいるようで、「Iさん、Hさん、Nさん、怒らないので出てきてください。」なんてアナウンスまで聞こえてきます。
駐車場から懐中電灯を照らしながら探されているときは本当に息を殺しました。ものすごいスリルだった。しばらくするとここで猛烈な睡魔が3人を襲います。ここで薬が効いてきたのか3人共爆睡しました。
しばらくしてまだ暗い時間に目を覚ますと、捜索場所が変わったのか今日は打ち切りになったのか探している声がしなくなっていました。
3人共起き始め、これからどうする、、と作戦会議を始めます。
するとHが、帰りたい、ほんとは○にたくなんてない、とついに本音をこぼしました。今思えば至極真っ当ですが当時の私とIはキレ始めます。「え、ここで今Hだけが出て行ったらNとIが悪者になるのをわかった上で言ってる?」なんて酷い責め方をしたのも覚えてます。今思うと若いときの同調同圧は本当に恐ろしいものだなと思います。Hは◯にたくなんてなかったのに合わせてくれてた、少しスリルがあることにノリで付いてきちゃっただけなんだなと。
2対1で責められたH、今思うとほんとかわいそう。ほんとにごめんね。そのときどう話がまとまったのか経緯は覚えてませんが、結果3人で降伏しに出ていくことでまとまります。
3人で寄り添いながら先ほどの道に戻ると、ちょうど祖父が名前を呼んだ場所にまだ親たちがいました。私たちに気づいた親たちは各々発言しながら近づいてきてましたが泣いている親ももちろんいただろな、でも私が覚えてるのは普段優しい祖母が「あんたなにやってんの!!」て怒ってきたこと。じいじいだけじゃなくばあばあも来てた。そしてそのとき警察の方が「怒らないであげてください。」と制しながら毛布をかけてくれたことも覚えています。
大人たちがいた場所は別荘地の案内所だったのかな、普段から開放されているような小屋で、そこで捕虜のように大人しく座りました。そのあとは大人たちが警察の方と話をつけ、一旦私の祖父(←父方の。じいじいは母方)が経営している山梨のホテルに泊まることに。(のちにこのホテルは潰れます)
三家族でホテルへ着いて、うちは父と母と一緒。じいじいばあばあは自宅へ帰宅。Iのところはお父さんとお兄ちゃんが来てた。Hのところはお母さんだけだったかな。
ホテルへ着いたあとはHとIと3人で大浴場へ行き不謹慎にもお風呂で楽しんだことを覚えています。
あとはみんなで大きなお部屋で食事をした。何を話したか細かいことは覚えていない。どのタイミングで知ったかは忘れたけど、親たちが何故清里に来ていたかというと、さよならの電話をした友達の何人かが自身の親に伝え、友達親からIHNの親へ連絡が行ったそう。藁をもすがる思いで清里に来たと母が言っていました。あの日見つからなかったら翌日ヘリも出す手筈になっていたと。もー本当に、書いてるだけでそのときの親たちの気持ちを考えると涙腺がこみ上げてくる。どんな気持ちだったんだろう。
私が帰らなかった日、母は自宅へ今から帰るよーと電話をしたときに、兄からNがまだ帰ってこないよと聞いたそう。すっごくすっごく焦っただろうな。息子に置き換えて考えたら本当に無理だ。
そして母の日だったんだよな、見つかった日。ほんととんだ親不孝ものだ。
帰ってきた私たちは普通に学校生活に戻ります。
しばらくして匿名の手紙で学校へこのことの通達が届いたそう。こういうことをしでかした生徒たちがいるが学校は把握してるのか、どう対処するのかといった内容だったとか。
親共に三家族お呼び出しがあり、学校謹慎という罰を与えられます。学校には来るけど個室でずっと自習。友達には会えない。あとカウンセリングをつけられたな。取り調べみたいな質問攻めで全くカウンセリングの意味なかった。そもそも鬱とかではなかったし。全然家庭は平和だったのに学校は家庭の原因を探ってたな。
結果カタチ的に自主退学をすることになりますが学校からも辞めることをすごく勧められたのを覚えてます。とにかく辞めることができました。
Iは1学期いっぱいで辞めて、私は2学期いっぱいで辞めて晴れて公立へ。Hは三年の卒業までいたはず。エスカレーター式に上がれる高校へは行かず、別の学校へ行ったはず。この一件でHとは疎遠になっちゃったんだよな。Hは悪くないどころか救世主だったのに。当時のIと私は裏切られた感があり仲良くなくなってしまいました。
私の親は最後まで学校を辞めることを渋ってましたが、兄がNの幸せ以外に大事なものある?と言ってくれたことがきっかけで決心ついたようです。
将来を案じて幼稚園から課金してくれてたのにそりゃなかなか辞めさせたくないよな、今ならわかります。
Hとは疎遠になっちゃったけどIとは高校も大学の頃も仲良く、常に何かスリルがあることはないかと考え、19のときにIとヒッチハイクで大阪へ行きました。23のとき結婚式で友人代表のスピーチもIにお願いしました。私は子を産んで、Iは薬剤師さんになってバリバリ働いてたからそこからあまり会わなくなっちゃったけど。Iっちゃん元気かな。会いたいな!
私はあのまま学校を続けて高校もそのまま進学していたら絶対に出会えなかった人と結婚して息子を授かったので、あの家出から息子と会うため人生になっていったんだと思うとなんとも感慨深いです。たくさんの人に迷惑をかけちゃったけど。
あのとき死ななくて本当に本当によかった。
絶対に真似して欲しくないからまだ息子に話したことないけど。
いつか一緒にお酒飲みながら息子に話してみたいです。