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やさしくて、つよい と思いたいんだ。

(内容がごちゃごちゃしています。自己満足です。
兄の病的な事も書いていたりと、全く爽やかでないので読んでいただいた後がモヤッとされるのでは…と思います。わたしの視点でしか無く、立場の異なる方への配慮も出来ていないと思います。

それでも読んでくださる方には
"興味を持って下さってありがとうございます"
と伝えたいです。)

「ほんとうに、満月でよかった。助けられた。」

すっかり忘れていた母のこの言葉を、最近になってよく思い出すようになりました。

母からこの言葉が出たのは、兄が何度目かの入院になる時でした。

兄が自身では全く望まない"入院"ということになってしまう時。
それは、だいたいの場合がもうすでに異質さがオーラのように兄を包んでいて、自身のコントロールが難しくなっている時でした。

兄の中の小さな核の部分だけが残った状態で、その周りに年齢とともに少しづつ重なるように形成されていたはずの経験や知識や人間性は剥がれ落ちて、野生の動物のような、現代社会に馴染まない何かになってしまっているかのように、わたしの目には見えていました。

それでも、
「この人は、ほかの人を傷つけないはず。
"そこだけは超えられない"、という意思は絶対に手放していないはず。」
と、この感覚だけはいつもありました。

その感覚を持っていないとわたし自身が立っていられなかったからなのか、今までの兄をずっと見てきた上での信頼や確信だったのかはわかりません。

この時、わたしは高校生だったのか、中学生だったのか。短大生の時か…。
それぞれの時期に何かとあったので、どの時だったのかは姉と答え合わせでもしないとあやふやですが。

食事に毒が入っていると言ってろくに食事をとろうとせず、自分は修行をしていると自分で頭を丸刈りにして、お風呂には温かいお湯がたまっているのに冷水を頭からかぶることしかしなくなっている兄を何日も何日も説得をして、、
ようやく、ほんの一瞬のタイミングだけ納得した兄を父の車の後部座席に乗せることができ、母が兄の隣に座り、隣町の病院に向かいました。

わたしは姉の車に乗せてもらい、わたしたちもまた、病院に向かっていました。

後から家を出たわたしたちの方が病院に先に着いたので、先に電話で連絡はしていましたが先生や看護士さんに再度、家を出るまでの兄の様子を伝えました。
ですが、いつまで待っても父の車は到着しなくて。"何かあったのだな" と思わなくてはいけないほどの時間が経ちました。

当時、携帯電話を持っていなかった父が公衆電話から病院に電話をかけてきた事で、
"また、どうすればいいのか分からない、先の見えない事がはじまるんだ…"
と、そう思いました。
姉が電話を受けとり、落ち着いた口調で父と話をしていました。

「あの子、走ってる車の窓を開けて、車から飛び降りたって。いま、お母さんが探しに行ってるって…」

何をどう考えないといけないのか分からないまま、胸がつぶれそうに感じながらわたしと姉も探しに行った覚えがあります。

かなしい…かなしい…かなしい

兄は、わたしの自慢の兄でした。
でも、そんな事を言葉にして本人に言ったことはたぶんありません。

70年代前半生まれの兄は、時代が時代だったので中学生からは友人とともにヤンキー文化にもそれなりに染まっていたし、きっと、周りの大人に迷惑もかけていたと思います。

実際、わたしは中学の入学式の日に、初めて会った男性教諭に

「お。〇〇って言ったら(少し珍しい私の苗字)兄ちゃんいるだろ?兄ちゃんよりはまともそうだな。
おまえは迷惑掛けるなよ。」

と、目を合わすこともなくぶっきらぼうに言葉を掛けられました。
当時、友人たちがジャニーズに熱をあげている中、ヤクルトスワローズの古田や西武ライオンズの石毛こそがテレビに出ている人の中で誰よりもカッコいいと、誰の共感を得られなくても全く氣にせずに思い続けていた位に "オジサン好き" だったわたしなのですが…
その先生は意地悪な物言いも相まって、全くカッコいい大人の男性には見えなかったので、
「お兄ちゃん、評判悪かったんだな。。」
と氣は重くなりましたが、その先生の言うことを鵜呑みにしてわたしが縮こまるまでの必要はないな、、となんとなく脳が処理をしてくれました。

後日、母にその話をしてみると、その先生は兄が中2の時の担任の先生で。
悪ぶっているグループの中でもたいした悪じゃなかった兄は、弁当をゴミ箱に捨てられたり殴られたりと、何かとその先生から見せしめ的に絞られていたそうでした。

何度かnoteにも書きましたが、兄は絵や造形が小さい頃からえらく上手くて。
学校の課題や、夏休みの自由研究などは自分の世界に入って作品を仕上げていました。
母が夕飯を知らせても耳に入らないくらいでした。
昆虫採集にしても、木材で何かを作るにしても兄なりのこだわりが必ずあって、それが周りの大人を唸らせていました。
"自分ならどうするか。"
兄が作るものや描くものにはいつもそれが軸にあって、それを表現する事は兄の喜びに見えました。

とにかく綺麗なものが好きで、生きものに優しい、弱っているものには心を寄せる事のできる人間、わたしにはそう見えていました。

それなりにたくさん、兄の症状に関連する本を読んできたと思います。
読めば読むほどに、かなしいけれど兄の資質に似ているものがそこには散らばっていました。

まだ10代の頃、兄がしょっちゅう言っていました。
「腹がむずむずする。体がおかしいんだ!
力が入らない。なんで俺がこんな事にならないといけないんだよ!!もっと悪い奴なんて山程いるだろうが!!」

"なんで俺なんだよ"

そんなのは、わたしも何千回も何万回も思ってきました。

"なんでこんなに苦しむ役が兄ちゃんにきたんだろう。こんなにも苦しんで、理解もされない。外にも言えない。神様なんていない。"


兄が車から飛び出して病院に行くのを拒んだ時、母は走りにくい靴を脱いで、靴下のままで兄を追いかけて走っていたそうです。

病院から少し離れたところにお城があって、その周りをグルリと囲んでいる土手を、だいぶ先に見える兄の名前を呼びながら走っていたそうです。

たまたま巡回していたのか、もしかしたら誰かがただごとでは無いと思って通報していたのか、通りかかったパトカーに母は事情を話して兄を追ってもらいました。
警官の人が上手に兄と話をしてくれて、(そういう時、兄はずっと混乱状態な訳ではなく、落ち着きと混乱を細かく繰り返しているようにみえます)兄は母と共にパトカーに乗り、病院まで来ました。

そのあとも、
"本人の困難が大きくなり過ぎているけれども希望をしていない状態での入院"
は毎回とても課題が多かった。と、まだ世の中のほとんどを知らず、何の舵取りをすることも責任を負う事もしていなかったわたしでさえ感覚として残っています。

子どもを育てる立場になり、当時の母を思ってみても分からないことばかりです。
わたしが見てきたものが一部分過ぎるのか、わたしと母の思考や人間性に違いが大きくて、想像しきれないのか。

ただ、あの夜、母が願っていたのは
"苦しんでいる息子をたすけたい。"
それだけだったように思います。

警官の方や、病院のスタッフの方たちに何度も何度も頭を下げて。
薬で眠っている兄を確認してからわたしと姉のところに来た母が言った言葉が、

「ほんとうに、満月でよかった。助けられた。
そうじゃなかったら、私のことだから暗くて転んでたと思うわ。
あの子も怪我をしてなくてよかった。」

でした。
わたしなら、"助けられた" なんて言葉、きっと浮かばない。
あの入院は何度目かの入院だったから、入院中にはまた、否が応でも向き合わないといけないことが降りかかってくるのだろう と、何を負っているわけでもないわたしでさえ頭に浮かんでしまうのに。
母が思うのはただただ今ここにいる兄のことでした。

正解も不正解もないし、そもそもこんな家族のかたちでいたいわけでもない。
でも、母を優しいと、つよいと、そう思いたかった。
こんなに、兄を想っている母に免じて、どうか兄を治してくれませんか、と声にださないまま神様に願っていました。


*マネの絵の複製画が、当時のわが家に飾ってありました。幼い頃からずっと目に入っていたのでいまだに愛着を感じます。
"愛着"は、ふとした時に心を救ってくれるなぁと、そんな風に思うことがよくあります。

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