論理的な思考 —高橋新吉の詩「るす」について—
今回は、詩人・高橋新吉の「るす」という詩について見ていきます。詩の引用については、歴史的仮名遣いを、現代の仮名遣いに変えたことを、断っておきたいと思います。
るす 高橋新吉
留守と言え
ここには誰も居らぬと言え
五億年経ったら帰って来る
この詩が異様な作品であることは、一読すれば、誰でも分かると思います。この詩の内容は、自分の留守を任せた相手に、「五億年経ったら帰って来る」と約束する、というものです。どこが異様なのかと言うと、「五億年」というところです。「三日」とか、「一年」ならば分かります。しかし、「五億年」とは! このような異様な詩ですが、その内容に反発するのではなく、うまく付き合ってみようと思います。
さて、この詩とうまく付き合う、ということは、この詩の特徴を掴むことであると考えます。詩の特徴とは、語り手の特徴でもあります。この詩の語り手の特徴は、一体どこにあるのでしょうか。
まず、この語り手について、この人物は、五億年後も、帰って来るこの場所があると思っているのだと読めます。また、自分や約束した相手についても、五億年後も生きて存在している、と思っているのではないかと推測できます。そこが、この語り手の特徴、つまり変わっているところであるように感じられます。
しかし、よく考えると、場所が存在していると思い込んでいることや、人が生きていると思い込んでいることは、この人の奇妙さの本質を突いていないようにも思えます。では、この人物の奇妙さの本質とは、一体何でしょうか。
それは、五億年後も、約束が有効である、と考えている点ではないでしょうか。五億年も経てば、「約束」という概念を生み出した人類は、まず滅んでいます。地球が存在しているかも怪しい。それなのに、五億年後も依然としてこの約束は有効である、と考えている、そのことが、この人の感覚の、最もズレた点であると言えます。
しかしまた、こうも考えられます。五億年が経つ、ということは、単なる時間の経過にすぎないため、この約束は、五億年後も有効なものとして存在しているのだ、と。約束というものは、一度結んでしまえば、それが果たされるまでずっと有効なものであるため、それから五年経とうが、五十年経とうが、そして五億年経とうが、ずっと有効なものである、と。
もちろん、その五億年の間に、人類は滅んでいます。いや、それ以前に、この語り手や、約束した相手は、とうにいません。しかし、この詩が扱っているのは、五億年後もこの約束が有効であるか否か、という問題ではないでしょうか。多くの人は、この問題に対して、五億年経ったら約束はもう無効だ、と考えます。しかし、語り手は、五億年経とうが、約束というものは一度結んだらそれが果たされるまで、ずっと有効なものである、と考えています。ここには、論理的な思考というものが感じられないでしょうか。
ここまで分析すると、この詩は、その、五億年後も約束が有効かどうか、という問題について論じるために書かれたものであると分かります。だから、留守を任せる、という設定は、あくまで、便宜的なものであると言えるのです。しかし、一つの約束について、それが五億年後も有効であると考える、語り手の存在は、決して便宜的なものではありません。むしろ、この詩の核の部分であるとも言えます。なぜなら、この詩の存在とは、非常に論理的な思考をする、一人の語り手の視点の存在そのものだからです。その語り手の感覚は、普通の人とは明らかに異なっています。しかし、実は、真に論理的な考え方をしているのはこの語り手の方で、普通の人の方が、常識に惑わされている、ということではないでしょうか。
常識に惑わされることなく、論理的な思考をする語り手。その存在から、私たちは実は論理的な思考をしていない、という事実が明らかになります。