山田詠美「宿り木」について —人間らしい人間—
今回は、山田詠美『タイニーストーリーズ』所収の小説・「宿り木」について書く。
この小説は、読む人に「奇妙な話だ」という印象を抱かせがちな作品である。語り手の女性・志乃は、その性格の内に明らかにいびつさを抱えているが、そのいびつさは、一見しただけでは不規則に顕れているように思えてしまう。そのため、読者は語り手の人物像を掴むことができず、「難解な作品だ」と感じてしまうのである。
しかし、私は、苦心の果てに、志乃の人物像を掴むことに成功した。それどころか、彼女の魅力を理解することさえできたのである。その成果を、以下に記したい。
まず、志乃の性格を一言で言ってしまえば、「“正しさ”というものに無上の価値を置く」というものになる。志乃には、舞子という名のいとこがいるが、その舞子の言葉は何でも正しいのだと、志乃は信じている。そのことは、作中の次のような一節からも明らかである。
彼女の言うことは聞いておくべきです。だって、いつだって正しいのですから。(山田詠美『タイニーストーリーズ』文春文庫、pp,100-1)
しかし、志乃の変わっているところは、次のような点だ。彼女は、舞子の言葉の“正しさ”というものが先に存在していて、その“正しさ”は後から自分の手によって証明されるべきものだと考えている。したがって、志乃は舞子の言葉の“正しさ”を証明するため、日々奔走することになる。
彼女の正しさが証明出来て良かったと思いました。そして、これからの私の人生は、こういうことに心を砕いて行くのだろうなあ、と感じました。でも、いったい、いつまで続くのでしょう。終わりのない任務なのでしょうか。(同書、p,101)
と、書かれていることからも、志乃の行動パターンが、「舞子の言葉の正しさを証明する」というものであることが分かるだろう。
志乃が、舞子の言うことの“正しさ”を証明しようとした具体例の一つとして、犬のポチコのエピソードが挙げられる。舞子はポチコに怒って、「私の言うこと聞かない犬なんか死んじゃうんだから! ほんとなんだから!!」(同書、p,100)と叫んだ。その舞子の言葉の“正しさ”を証明するため、なんと志乃は、ポチコを殺してしまうのだ。
このことから、志乃は舞子の“正しさ”を証明するためならば、既存の道徳など平気で無視するのだ、ということが分かる。このことは、志乃がそれほどまでに、舞子の“正しさ”を証明しなければならないという使命感に燃えていることを表している。
また、志乃による舞子の“正しさ”の証明自体も、無理矢理なされていて、実質的には成り立っていないものも多い。例えば、舞子の「シクラメンの鉢植えは、見舞には厳禁である」という教えを証明するため、志乃は入院していた舞子本人に、シクラメンの鉢植えを手渡す。すると、舞子は、志乃の語りによると、次のような状態に陥る。
これまで以上に、はらわたが煮えくり返ったためか、内蔵が重度の火傷を負い、たちまち息を引き取ってしまいました。(同書、p,107)
この文章を一読すれば、内容がおかしいことに誰もが気付くだろう。「はらわたが煮えくり返る」というのは、あくまで比喩であり、いくら腹が立ったとしても、それで「はらわた」が沸騰して「内蔵が重度の火傷を負」うことは決してあり得ない。この文章は、表面的には一応理屈が通っているように見えるが、実際には成立していない(ちなみに、「はらわたが煮えくり返る」は、舞子の口癖として作中に何度も登場している)。だから、「はらわたが煮えくり返ったためか、内蔵が重度の火傷を負い」、というのは、「見舞にシクラメンの鉢植えは厳禁」という舞子の教えを、“やっつけ仕事”のような方法で“証明”していることになる。たとえ証明が、見せかけでしか成立していなくても、それでも証明を何とか成り立たせたい、という志乃の気持ちが、ここには顕れている。それほどまでに、舞子の“正しさ”を証明する、という事柄は、志乃にとって絶対的な使命なのである。補足しておくと、実際には、ここで舞子は決して息を引き取ってなどいず、ただ志乃に対する怒りを爆発させただけであると考えられる。
他にも、作中には、「結婚式に招待客は白い衣装を着て行ってはいけない」とか、「葬式ではパールのネックレスは一連にするべき」などの例も登場する。志乃は、これらの舞子の教えを証明しようとして、わざと嫌いな知り合いの冠婚葬祭にこれらのタブーを犯して出席する。その結果、人々に不幸が訪れた、と志乃は語っているが、これも志乃の読者への嘘であると、私は考える。志乃は、“証明”することを重視するあまり、事の真偽を疎かにしてしまっているのだ。ちなみに、「路頭に迷って、どぶの中に落ちて、溺れて死んでしまった」(同書、p,97)というのは、「はらわたが煮えくり返る」と同じパターンである。路頭に迷うというのは、あくまで比喩表現であり、実際に道をウロウロすることを指してはいないからだ。
また、103頁で、舞子は志乃のことを評して「馬鹿は風邪ひかない」と言っている。この悪口の実体は、幹也が感じた通り、「お茶目な憎まれ口」にすぎない。それなのに、志乃は、その幹也の感じ方について、「舞子の言葉を、お茶目な憎まれ口と勘違いしたらしく」と語っている。このことは、志乃が舞子の言葉を「絶対的に正しい無上の価値を持つもの」として、また「証明すべきもの」として捉えていることを示している。この後、志乃は厚着をして、風邪をひかないように全力を尽くしていることが、本文の記述からは窺える。
さらに、本文にはこのような一文もある。
叩かれた肩に手をやると、そこは、とても熱くなり、溶け出して粘り気のある糸を引いていました。(同書、p,106)
この一文の内容は、もちろん事実を示した記述ではない。志乃は、れっきとした人間であり、彼女の体は、「粘り気のある糸を引い(たり)」しない。では、この文章は何なのかというと、それは、舞子がヤドリギの話を聞いて、「志乃みたい」という感想を漏らしたことに由来している。ヤドリギは粘り気の強い果肉を持つため、志乃は自分がヤドリギであれば、他人から触られた時に体が粘るだろうと考えたのである。志乃は、舞子の「志乃みたい」という言葉の“正しさ”を証明するため、自分の体が粘った、というフィクションを生み出したのである。
このように、この「宿り木」という作品では、志乃は舞子の言葉の“正しさ”を証明するために奔走している。ここで注目すべきことは、普通は、定理についての証明が先にあり、そこでその定理の正しさが証明されたら、初めてその定理を応用して日常に活かす、という順序であるが、志乃の場合はその逆だ、という点だ。彼女の場合、定理の“正しさ”が先にあり、後からそれを実証している。このことは、彼女が、舞子の言葉の“正しさ”に絶対的な信頼を置いていることを示してはいないか。
以上のように、志乃は、自分が“正しい”と信じた定理を、現実を歪めてでも実現し、崇めようとしている。このような志乃の行動パターンは、一見、いびつなようにも感じられるが、実はそこには、“正しさ”への最大級の敬意が窺えることが指摘できる。“正しさ”というものは、とても重要な観念であり、それを最大限の方法で敬う、というのは、実は人間の「在るべき姿」なのではないだろうか、とさえ思われてくるのだ。
なお、“正しさ”に敬意を抱いているという点は、志乃の性格の最大の特徴であるが、彼女には他にもいろいろな“美徳”がある。
例えば、
そう言ったら、女としての気合いを入れないから男が寄って来ないのだ、と返されてしまいました。けれども、苦し気に咳込む姿をながめながら、気合いの無意味さを学ぶことが出来ました。(同書、p,104)
とあるが、「気合いの無意味さを学ぶことが出来ました」というのは、何も、志乃の舞子に対する皮肉ではなくて、志乃の学習意欲の旺盛さの顕れだろう。志乃に「男が寄って来ない」のは事実なので、この舞子の言葉については、志乃はもう“証明”する必要はない。しかし、舞子の言葉から、どんな小さな学びをも得ようというのが、志乃の姿勢なのである。
他にも、106頁では、自分のことを呼ぶ舞子の「しーのーう」という言葉を、「死のう」と言ったのではないかと志乃は思ってしまう。これは、舞子のいうことを「ちゃんとちゃんと聞くように」(同書、p,96)しているためだろう。
さらに、107頁には、「本当のことしか言わなかった正直者の私」とある。ここでは、志乃は確かに「本当のこと」だけを口にしているが、情報の取捨選択の仕方が断片的で、まるで志乃に悪意があるかのように、読者には感じられてしまう。しかし、彼女は、他の要素を切り捨てても、「本当」のことを口にするというその一点を優先しているのだと考えられる。この“正直さ”も、彼女の“美徳”の一つだ。彼女は、作中で嘘をつくこともあるが、それとて思いやりから来るものであった(98頁参照)。彼女は、基本的には“正直”な性格であると言える。
このように、彼女の性格には、正しさに敬意を払うという大きな特徴の他にも、様々な特徴があることが分かる。総じて、彼女はあらゆる“美徳”を具えた“善良”な人物であると言えよう。実際には、志乃のやっていることはグロテスクに歪んでしまっているが、彼女がそれぞれの美徳に敬意を払い、他の要素を疎かにしてでもその“美徳”を追求しようという姿勢を持っていることは確かである。
以上より、小説「宿り木」の志乃は、あらゆる美徳に対して敬意を払い、それらを身につけようとしていると言える。中でも、彼女が最も崇めているのは、「正しさ」である。様々な美徳を追求し、そして「正しさ」という価値観に絶対的な信頼を寄せるというのは、我々人間に共通の特徴であるとも言える。このことから、一見、人間離れした奇人に見えた志乃は、実はとても《人間らしい》人物なのだと言うことができる。さらに言えば、そのような美徳を追求するという行為が徹底しているという点で、志乃は、普通の人間よりも、もっと《人間らしい》人間であるとさえ考えられるのである。
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